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渡り鳥
わたりどり
作品ID2295
著者太宰 治
文字遣い新字新仮名
底本 「太宰治全集9」 ちくま文庫、筑摩書房
1989(平成元)年5月30日
入力者柴田卓治
校正者かとうかおり
公開 / 更新2000-01-25 / 2014-09-17
長さの目安約 14 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

おもてには快楽をよそい、心には悩みわずらう。
                   ――ダンテ・アリギエリ



 晩秋の夜、音楽会もすみ、日比谷公会堂から、おびただしい数の烏が、さまざまの形をして、押し合い、もみ合いしながらぞろぞろ出て来て、やがておのおのの家路に向って、むらむらぱっと飛び立つ。
「山名先生じゃ、ありませんか?」
 呼びかけた一羽の烏は、無帽蓬髪の、ジャンパー姿で、痩せて背の高い青年である。
「そうですが、……」
 呼びかけられた烏は中年の、太った紳士である。青年にかわまず、有楽町のほうに向ってどんどん歩きながら、
「あなたは?」
「僕ですか?」
 青年は蓬髪を掻き上げて笑い、
「まあ、一介のデリッタンティとでも、……」
「何かご用ですか?」
「ファンなんです。先生の音楽評論のファンなんです。このごろ、あまりお書きにならぬようですね。」
「書いていますよ。」
 しまった! と青年は、暗闇の中で口をゆがめる。この青年は、東京の或る大学に籍を有しているのだが、制帽も制服も持っていない。そうして、ジャンパーと、それから間着の背広服を一揃い持っている。肉親からの仕送りがまるで無い様子で、或る時は靴磨きをした事もあり、また或る時は宝くじ売りをした事もあって、この頃は、表看板は或る出版社の編輯の手伝いという事にして、またそれも全くの出鱈目では無いが、裏でちょいちょい闇商売などに参画しているらしいので、ふところは、割にあたたかの模様である。
「音楽は、モオツアルトだけですね。」
 お世辞の失敗を取りかえそうとして、山名先生のモオツアルト礼讃の或る小論文を思い出し、おそるおそるひとりごとみたいに呟いて先生におもねる。
「そうとばかりも言えないが、……」
 しめた! 少しご機嫌が直って来たようだ。賭けてもいい、この先生の、外套の襟の蔭の頬が、ゆるんだに違いない。
 青年は図に乗り、
「近代音楽の堕落は、僕は、ベートーヴェンあたりからはじまっていると思うのです。音楽が人間の生活に向き合って対決を迫るとは、邪道だと思うんです。音楽の本質は、あくまでも生活の伴奏であるべきだと思うんです。僕は今夜、久し振りにモオツアルトを聞き、音楽とは、こんなものだとつくづく、……」
「僕は、ここから乗るがね。」
 有楽町駅である。
「ああ、そうですか、失礼しました。今夜は、先生とお話が出来て、うれしかったです。」
 ズボンのポケットに両手を突っ込んだまま、青年は、軽くお辞儀をして、先生と別れ、くるりと廻れ右をして銀座のほうに向う。
 ベートーヴェンを聞けば、ベートーヴェンさ。モオツアルトを聞けば、モオツアルトさ。どっちだっていいじゃないか。あの先生、口髭をはやしていやがるけど、あの口髭の趣味は難解だ。うん、どだいあの野郎には、趣味が無いのかも知れん。うん、そうだ、評論家というもの…

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