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はえ
作品ID2302
著者横光 利一
文字遣い新字新仮名
底本 「日輪 春は馬車に乗って 他八篇」 岩波文庫、岩波書店
1981(昭和56)年8月17日
入力者大野晋
校正者瀬戸さえ子
公開 / 更新1999-07-09 / 2014-09-17
長さの目安約 8 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

       一

 真夏の宿場は空虚であった。ただ眼の大きな一疋の蠅だけは、薄暗い厩の隅の蜘蛛の巣にひっかかると、後肢で網を跳ねつつ暫くぶらぶらと揺れていた。と、豆のようにぼたりと落ちた。そうして、馬糞の重みに斜めに突き立っている藁の端から、裸体にされた馬の背中まで這い上った。

       二

 馬は一条の枯草を奥歯にひっ掛けたまま、猫背の老いた馭者の姿を捜している。
 馭者は宿場の横の饅頭屋の店頭で、将棋を三番さして負け通した。
「何に? 文句をいうな。もう一番じゃ。」
 すると、廂を脱れた日の光は、彼の腰から、円い荷物のような猫背の上へ乗りかかって来た。

       三

 宿場の空虚な場庭へ一人の農婦が馳けつけた。彼女はこの朝早く、街に務めている息子から危篤の電報を受けとった。それから露に湿った三里の山路を馳け続けた。
「馬車はまだかのう?」
 彼女は馭者部屋を覗いて呼んだが返事がない。
「馬車はまだかのう?」
 歪んだ畳の上には湯飲みが一つ転っていて、中から酒色の番茶がひとり静に流れていた。農婦はうろうろと場庭を廻ると、饅頭屋の横からまた呼んだ。
「馬車はまだかの?」
「先刻出ましたぞ。」
 答えたのはその家の主婦である。
「出たかのう。馬車はもう出ましたかのう。いつ出ましたな。もうちと早よ来ると良かったのじゃが、もう出ぬじゃろか?」
 農婦は性急な泣き声でそういう中に、早や泣き出した。が、涙も拭かず、往還の中央に突き立っていてから、街の方へすたすたと歩き始めた。
「二番が出るぞ。」
 猫背の馭者は将棋盤を見詰めたまま農婦にいった。農婦は歩みを停めると、くるりと向き返ってその淡い眉毛を吊り上げた。
「出るかの。直ぐ出るかの。悴が死にかけておるのじゃが、間に合わせておくれかの?」
「桂馬と来たな。」
「まアまア嬉しや。街までどれほどかかるじゃろ。いつ出しておくれるのう。」
「二番が出るわい。」と馭者はぽんと歩を打った。
「出ますかな、街までは三時間もかかりますかな。三時間はたっぷりかかりますやろ。悴が死にかけていますのじゃ、間に合せておくれかのう?」

       四

 野末の陽炎の中から、種蓮華を叩く音が聞えて来る。若者と娘は宿場の方へ急いで行った。娘は若者の肩の荷物へ手をかけた。
「持とう。」
「何アに。」
「重たかろうが。」
 若者は黙っていかにも軽そうな容子を見せた。が、額から流れる汗は塩辛かった。
「馬車はもう出たかしら。」と娘は呟いた。
 若者は荷物の下から、眼を細めて太陽を眺めると、
「ちょっと暑うなったな、まだじゃろう。」
 二人は黙ってしまった。牛の鳴き声がした。
「知れたらどうしよう。」と娘はいうとちょっと泣きそうな顔をした。
 種蓮華を叩く音だけが、幽かに足音のように追って来る。娘は後を向いて見て、それから若者の肩…

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