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簡略自伝
かんりゃくじでん
作品ID2310
著者佐左木 俊郎
文字遣い新字新仮名
底本 「佐左木俊郎選集」 英宝社
1984(昭和59)年4月14日
入力者大野晋
校正者鈴木伸吾
公開 / 更新1999-09-24 / 2014-09-17
長さの目安約 3 ページ(500字/頁で計算)

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本文より




 明治三十三年(1900)宮城県岩出山町在の中農の家に生まる。当時既にこの層の没落は、全農民階級中最も甚しく、私の家もまたその例にもれず只管に没落への途を急いでいたのであった。それを知って父は急に足掻き出し、奪還策として、山林田畑を売り払っていろいろの事業に手をつけ、失敗に失敗を重ね、却って加速度を与えるの結果となったのであった。――その間、僅かに七八年、私は、どん底の中で小学校を卒業した。
 随って、中等の学校教育を受けることが出来ず、悶々の日を送るうちに、機関車に対する憧憬止み難く、十六の夏北海道に走り、その秋、池田機関庫に就職。――この頃より、文学書に親しむ機会多く、文学に対して漫然とした興味を抱く。
 併し父は機関車の危険を怖れ、翌十七の晩春、母危篤の虚を構えて郷家へ呼び戻された。――再び鬱々の日来たり、約一年半、父や叔父の読み古した軍記、文学、講談などの雑誌に埋れて夢を見続けていた。
 十八の秋に上京。今村力三郎法律事務所に寄食。私に文学を志していたのであったが、一日も早く父母の生活を支えねばならぬという立場から、奨められて電機学校に籍を置く。電機学校にはアドバンス・コピーというものがあり、教師の講義を直接に聴くの必要はなく、通学の時間を毎日一ツ橋図書館に利用し、学校の方は試験だけを受けて進級していた。
 約二カ年にして卒業に近く、電機技術師になってしまうことを怖れていたころ、偶然にも父の危篤に接して郷家に戻り、父母の生活を助くべく、郷里の小学校に代用教員として通う。
 この頃から、文学への熱望甚しく、再び今村力三郎氏に寄食し、国民英学会、国漢文研究所、日本大学などを転々して、比較的文学の道に直接とする学科の聴講に努めた。――するうち、肋膜炎にやられ、医師から、約二カ年間の座食を命ぜられ、徹底的に文学書を熟読するの機会を得た。健康恢復と同時に、自らの働きをもって生活するの必要に迫られ、中央局通信事務員、河口鉄工場職工、東京地方裁判所雇、その他二三を転々として、東京市水道拡張課の土木監督となり、震災と同時に失職。二カ月ほど土工をして旅費をつくり、郷家に転がり込む。
 帰郷中、妻の出産と共に、座食を抬ばれず、百姓仕事を手伝っては見たが、圧迫の感に堪え得ずして上京。建築人夫、土工人夫等の、全く筋肉労働者の群に投じて約一カ年を送る。筋肉労働中、「文章倶楽部」への投書に依って加藤武雄氏を知り、拾われて訪問記者となり、大正十四年の秋頃から「文章倶楽部」の編輯を手伝うことになって、今日に及んでいる。――併し、編輯に於いては原稿の計算方法から教え導かれ、小説に於いては、処女作以来今日もなお面倒を見てもらっている加藤武雄氏への恩義を思わずしては、私はいつも自分の過去を顧ることが出来ない。
――昭和五年(一九三〇年)三月一日執筆――



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