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山を讃する文
やまをさんするぶん
作品ID2365
著者小島 烏水
文字遣い新字旧仮名
底本 「山岳紀行文集 日本アルプス」 岩波文庫、岩波書店
1992(平成4)年7月16日
入力者大野晋
校正者地田尚
公開 / 更新1999-09-20 / 2014-09-17
長さの目安約 3 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 近来邦人が、いたづらなる夏期講習会、もしくは無意義なるいはゆる「湯治」「海水浴」以外に、種々なる登山の集会を計画し、これに附和するもの漸く多きを致す傾向あるは頗る吾人の意を獲たり、しかも邦人のやや山岳を識るといふ人も、富士、立山、白山、御嶽など、三、四登りやすきを上下したるに過ぎず、その他に至りては、これを睹ること、宛ら外国の山岳の如くなるは、遺憾にあらずや。
 例へば東京最近の山岳国といへば、甲斐なるべくして、しかも敢へて峡中に入り、峻山深谿を跋渉したるもの幾人かある、今や中央鉄道開通して、その益を享くるもの、塩商米穀商以外に多からずとせば、邦人が鉄道を利用するの道もまた狭いかな、偶ま地質家、山林家、植物家らにして、これらの人寰を絶したる山間谿陰に、連日を送りたるものあるは、これを聞かざるにあらずといへども、しかもかくの如きはこれ、漁人海に泛び、樵夫山に入ると同じく、その本職即ち然るのみ、余の言ふところの意はこれに異なり、夏の休暇は、衆庶に与へられたる安息日なり、飽食と甘睡とを以て、空耗すべきにあらず、盍くんぞ自然の大堂に詣でて、造花の威厳を讃せざる、天人間に横はれる契点を山なりとすれば、山の天職たるけだし重く、人またこれを閑却するを許さざるなり。
 余今夏、友人紫紅山崎君と峡中に入る、峡中の地たる、東に金峰の大塊あり、北に八ヶ岳火山あり、西に駒ヶ岳の花崗岩大系あり、余らの計画はこれらの山岳を、次第に巡るに在りて、今や殆どその三の二を遂げたり、而して上下跋渉の間、心胸、豁如、洞朗、昨日の我は今日の我にあらず、今日の我はおそらく明日の我にあらざらむ、而してこれ向上の我なり、いよいよ向上して我を忘れ、程を逐ひて自然に帰る、想ひ起す、昨八ヶ岳裾野の紫蕊紅葩に、半肩を没して佇むや、奇雲の夕日を浴ぶるもの、火峰の如く兀々然として天を衝き、乱焼の焔は、茅萱の葉々を辷りて、一泓水の底に聖火を蔵す、富士山その残照の間に、一朶の玉蘭、紫を吸ひて遠く漂ふごとくなるや、桔梗もまた羞ぢて莟を垂れんとす、眇たる五尺の身、この色に沁み、この火に焼かれて、そこになほ我ありとすれば、そは同化あるのみ、同化の極致は大我あるのみ、その原頭を、馬を牽いて過ぎゆく[#挿絵]夫を目送するに、影は三丈五丈と延び、大樹の折るる如くして、かの水に落ち、忽焉として聖火に冥合す、彼大幸を知らず、知らざるところ、彼の最も大幸なる所以なり、ああ、岳神、大慈大悲、我らに代り、その屹立を以て、その威厳を以て、その秀色を以て、千古万古天に祈祷しつつあるを知らずや。
 徂徠先生その『風流使者記』中に曰く「風流使者訪名山」と。我らは風流使者にあらず、しかも天縁尽きずして、ここに名山を拝するの栄を得、名山が天を讃する如くにして、人間は名山を讃す、また可ならずや。
 駒ヶ岳の麓、台ヶ原の客舎に昼餐を了りたる束の間に、禿筆を…

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