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尾生の信
びせいのしん
著者
文字遣い新字新仮名
底本 「芥川龍之介全集3」 ちくま文庫、筑摩書房
1986(昭和61)年12月1日
初出「中央文学」1920(大正9)年1月
入力者j.utiyama
校正者かとうかおり
公開 / 更新1998-12-08 / 2014-09-17
長さの目安約 4 ページ(500字/頁で計算)
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本文より

 尾生は橋の下に佇んで、さっきから女の来るのを待っている。
 見上げると、高い石の橋欄には、蔦蘿が半ば這いかかって、時々その間を通りすぎる往来の人の白衣の裾が、鮮かな入日に照らされながら、悠々と風に吹かれて行く。が、女は未だに来ない。
 尾生はそっと口笛を鳴しながら、気軽く橋の下の洲を見渡した。
 橋の下の黄泥の洲は、二坪ばかりの広さを剰して、すぐに水と続いている。水際の蘆の間には、大方蟹の棲家であろう、いくつも円い穴があって、そこへ波が当る度に、たぶりと云うかすかな音が聞えた。が、女は未だに来ない。
 尾生はやや待遠しそうに水際まで歩を移して、舟一艘通らない静な川筋を眺めまわした。
 川筋には青い蘆が、隙間もなくひしひしと生えている。のみならずその蘆の間には、所々に川楊が、こんもりと円く茂っている。だからその間を縫う水の面も、川幅の割には広く見えない。ただ、帯ほどの澄んだ水が、雲母のような雲の影をたった一つ鍍金しながら、ひっそりと蘆の中にうねっている。が、女は未だに来ない。
 尾生は水際から歩をめぐらせて、今度は広くもない洲の上を、あちらこちらと歩きながら、おもむろに暮色を加えて行く、あたりの静かさに耳を傾けた。
 橋の上にはしばらくの間、行人の跡を絶ったのであろう。沓の音も、蹄の音も、あるいはまた車の音も、そこからはもう聞えて来ない。風の音、蘆の音、水の音、――それからどこかでけたたましく、蒼鷺の啼く声がした。と思って立止ると、いつか潮がさし出したと見えて、黄泥を洗う水の色が、さっきよりは間近に光っている。が、女は未だに来ない。
 尾生は険しく眉をひそめながら、橋の下のうす暗い洲を、いよいよ足早に歩き始めた。その内に川の水は、一寸ずつ、一尺ずつ、次第に洲の上へ上って来る。同時にまた川から立昇る藻の[#挿絵]や水の[#挿絵]も、冷たく肌にまつわり出した。見上げると、もう橋の上には鮮かな入日の光が消えて、ただ、石の橋欄ばかりが、ほのかに青んだ暮方の空を、黒々と正しく切り抜いている。が、女は未だに来ない。
 尾生はとうとう立ちすくんだ。
 川の水はもう沓を濡しながら、鋼鉄よりも冷やかな光を湛えて、漫々と橋の下に広がっている。すると、膝も、腹も、胸も、恐らくは頃刻を出ない内に、この酷薄な満潮の水に隠されてしまうのに相違あるまい。いや、そう云う内にも水嵩は益高くなって、今ではとうとう両脛さえも、川波の下に没してしまった。が、女は未だに来ない。
 尾生は水の中に立ったまま、まだ一縷の望を便りに、何度も橋の空へ眼をやった。
 腹を浸した水の上には、とうに蒼茫たる暮色が立ち罩めて、遠近に茂った蘆や柳も、寂しい葉ずれの音ばかりを、ぼんやりした靄の中から送って来る。と、尾生の鼻を掠めて、鱸らしい魚が一匹、ひらりと白い腹を飜した。その魚の躍った空にも、疎ながらもう星の光が見え…

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