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あさましきもの
あさましきもの
作品ID240
著者太宰 治
文字遣い新字新仮名
底本 「太宰治全集2」 ちくま文庫、筑摩書房
1988(昭和63)年9月27日
入力者柴田卓治
校正者小林繁雄
公開 / 更新1999-08-20 / 2014-09-17
長さの目安約 4 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

賭弓に、わななく/\久しうありて、はづしたる矢の、もて離れてことかたへ行きたる。

 こんな話を聞いた。
 たばこ屋の娘で、小さく、愛くるしいのがいた。男は、この娘のために、飲酒をやめようと決心した。娘は、男のその決意を聞き、「うれしい。」と呟いて、うつむいた。うれしそうであった。「僕の意志の強さを信じて呉れるね?」男の声も真剣であった。娘はだまって、こっくり首肯いた。信じた様子であった。
 男の意志は強くなかった。その翌々日、すでに飲酒を為した。日暮れて、男は蹌踉、たばこ屋の店さきに立った。
「すみません」と小声で言って、ぴょこんと頭をさげた。真実わるい、と思っていた。娘は、笑っていた。
「こんどこそ、飲まないからね」
「なにさ」娘は、無心に笑っていた。
「かんにんして、ね」
「だめよ、お酒飲みの真似なんかして」
 男の酔いは一時にさめた。「ありがとう。もう飲まない」
「たんと、たんと、からかいなさい」
「おや、僕は、僕は、ほんとうに飲んでいるのだよ」
 あらためて娘の瞳を凝視した。
「だって」娘は、濁りなき笑顔で応じた。「誓ったのだもの。飲むわけないわ。ここではお芝居およしなさいね」
 てんから疑って呉れなかった。
 男は、キネマ俳優であった。岡田時彦さんである。先年なくなったが、じみな人であった。あんな、せつなかったこと、ございませんでした、としんみり述懐して、行儀よく紅茶を一口すすった。

 また、こんな話も聞いた。
 どんなに永いこと散歩しても、それでも物たりなかったという。ひとけなき夜の道。女は、息もたえだえの思いで、幾度となく胴をくねらせた。けれども、大学生は、レインコオトのポケットに両手をつっこんだまま、さっさと歩いた。女は、その大学生の怒った肩に、おのれの丸いやわらかな肩をこすりつけるようにしながら男の後を追った。
 大学生は、頭がよかった。女の発情を察知していた。歩きながら囁いた。
「ね、この道をまっすぐに歩いていって、三つ目のポストのところでキスしよう」
 女は、からだを固くした。
 一つ。女は、死にそうになった。
 二つ。息ができなくなった。
 三つ。大学生は、やはりどんどん歩いて行った。女は、そのあとを追って、死ぬよりほかはないわ、と呟いて、わが身が雑巾のように思われたそうである。
 女は、私の友人の画家が使っていたモデル女である。花の衣服をするっと脱いだら、おまもり袋が首にぷらんとさがっていたっけ、とその友人の画家が苦笑していた。

 また、こんな話も聞いた。
 その男は、甚だ身だしなみがよかった。鼻をかむのにさえ、両手の小指をつんとそらして行った。洗練されている、と人もおのれも許していた。その男が、或る微妙な罪名のもとに、牢へいれられた。牢へはいっても、身だしなみがよかった。男は、左肺を少し悪くしていた。
 検事は、男を、病気も…

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