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谷間からの手紙
たにまからのてがみ
作品ID24352
著者林 芙美子
文字遣い新字旧仮名
底本 「林芙美子全集 第十五巻」 文泉堂出版
1977(昭和52)年4月20日
初出「令女界」1931(昭和6年)10月号
入力者林幸雄
校正者花田泰治郎
公開 / 更新2005-08-24 / 2014-09-18
長さの目安約 11 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 第一信
 まるで、それは登山列車へでも乗つてゐるやうでありました。トンネルを抜けるたび、雲の流れが眼に近くなつて、泣いたあとの淋しさを感じてゐます。
「貴女のいらつしやる町はあれなンでせうね」
 さう言つて、東京から一緒だつた兵隊さんが、谷間に見える小さい部落を指さします。まるで、子供の頃見たパノラマのやうに、森や、寺や、川や、学校がチンマリとして、農家の小さい庭には木槿や百日紅、をどりこ草、黄蜀葵、サルビヤなどが盛りで、あんなに東京を離れることを淋しがつてゐた私も、まづ、こゝろ長閑になりました。
 汽車はがら空きです。貴女が楽しみにして食べるのよつて下すつた、犬のチヨコレートを、ちよいちよい嘗めてゐるうちに前の兵隊さんが、私の足の甲をそつと踏みます。額だけが、まるで白粉を塗つたやうに白くて、肩が板のやうなガンヂヤウなこの兵隊さんは、私をいつたいいくつだと思つてゐるのでせう。
「これ‥‥」
 さう言つて、富士山の模様の風呂敷から、萄葡と固パンを出して私の膝に載つけましたので、私はチヨコレートの犬の尻つぽをお返しにしました。すると、兵隊さんは、その犬の尻つぽをひと口に頬ばつて、私の足をきつと踏みました。
「痛いわ!」
 さう小さい声で言つたんですけど、兵隊さんはまるで赤い地図のやうに首筋から血を上せて、顔をあかくしました。
 谷間へ行く駅へ降りたのは私がたゞひとり、兵隊さんはいつまでも汽車の窓から帽子を振つてくれました。山の駅には、登山帰りの学生が三人、軽いリユツクサツクを背負つて、東京行きの汽車の来るのを待つてゐました。
 私は、バスケツトだの、風呂敷包だの三ツも荷物を持つてゐましたので、その学生の人達に、自動車でもあるでせうかと聞いてみました。
「まだ四時だから、谷間へ行く乗合が出るでせう」
 さう言つて、何だか変に顔を歪めて、私の顔を見るとクスリと笑ひました。するとあとの二人も、私の顔を見てクスクスと笑ふのです。私は悲しくなつて、貴女とお別れしたときの涙が、またポロポロとこぼれ出しました。
「僕が乗合まで荷物持つてあげよう」
 眉の太い学生が、私の涙に驚いたのでありませう、ステツキに風呂敷包を両方から通すと、先に立つて歩いてくれました。
 だらだらとした砂利道を降りて、丁度振り返ると、駅のホームが眉の上に見えるところで、上の学生達が、両手を振つて冷やかしてゐました。
「オーイ、よく似合ふぜツ」
「そのまゝお嬢さんとこへ泊つちや駄目だよツ!」
 私は沈黙つて小さくなつて歩いてゐました。
 坂が切れると、不意に大きい激しい流れがあつて、橋の向うの藁屋根の軒に、赤い旗が出てゐました。
「あゝまだゆつくり間に合ひますよ」
 それから、何かまだその学生は私に言つたのですが、黒い下りの貨物列車が、トンネルを出て来たので、私にはよく聞きとれませんでした。
「えゝツ、…

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