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秋果
しゅうか
作品ID24357
著者林 芙美子
文字遣い旧字旧仮名
底本 「改造」 改造社
1941(昭和16)年9月1日
初出「改造」改造社、1941(昭和16)年9月1日
入力者林幸雄
校正者花田泰治郎
公開 / 更新2005-08-24 / 2014-09-18
長さの目安約 33 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 芝居が閉ねて劇場を出ると、もんは如何にも吻つとしたやうに暗い街を歩いた。おなかが空いてゐたけれど、もうこのごろは何一つこんなに遲くまで食物店をひらいてゐる店もない。芝居もどりの人達が、ぞろぞろ自分のそばを通つてゐた。新宿行の電車の通つてゐる四ツ角の安全地帶のところまで來ると、もんは誰かが自分の肩を強く押して通つたやうな氣がして、ふつと振り返つたけれど、誰が肩を押して行つたのか、たゞ、自分のまはりを黒い人影が電車道の方へぞろぞろ流れてゐるきりだつた。秋らしいひいやりとした夜風が吹いてゐた。安全地帶で、暫く新宿行きの電車を待つてゐたが、來る電車も、來る電車も滿員で、もんにはなかなか乘れさうにもない。何處から、こんなに澤山のひとが鈴なりになつて來るのかもんには不思議だつた。さつきから、もんと同じやうに、何臺も電車を待つてゐる二三人連れの女のひとたちが、時々華かに笑ひあひながら芝居の話をしてゐた。そのなかのひとりが、笑ひ聲のしづまつたあとで、「何だか、行末のことを考へてゐると、私、心細いやうな氣がして仕方がないわ」と云つた。もんは獨りで安全地帶の廣告燈のそばに立つてゐて、心細い行末だと云つた女の聲をしみじみときいてゐた。
 もんは昨日、上海から戻つて來たばかりで、東京の街のすべてがなつかしくて仕方がなかつた。東京はやつぱりいゝところだと思つた。何處がいゝと云ふわけではなかつたけれど、獨りで住むにはやつぱり東京がいゝと思つた。軈て暫くしてから、やつと少しばかり空いた電車が來たので、もんは、二三人連れの女の人達のうしろから電車に乘つた。女の人達は、繪でも描く人達なのか、くすんだ電車のなかがぱつと明るくなるやうな思ひ思ひに風變りなかつこうをしてゐた。流行の、前髮をいくつも輪に卷いて、澁い金茶のお召に紅い帶を締めてゐるひとや、黒と白の氣取つた脊廣を着てゐる脊の高いひとや、薄緑[#「薄緑」は底本では「薄縁」]の外套を着て、手に大きい黒いハンドバツグをさげてゐるひとなど、暫く東京を離れてゐたもんには新鮮な感じでこの女づれが眺められた。安全地帶ではあんなに元氣にしやべりあつてゐたひとたちも、電車へ乘つてしまふと、みんな默りあつて吊革へつかまつてゐた。どのひとが、行末を心細いと云つたのかわからなかつたけれど、趣味のいゝ華かな姿を見てゐると、どのひとも、あまり行末のことなど考へてゐるやうにも見えなかつた。もんは、この女のひと達と並んで吊革に手をそへてゐたけれど、暗い窓にうつつてゐる自分の姿の方が、はるかに行末のことを心配してゐるやうに見える。
 四谷見附まで來ると、女の人達は降りて行つた。明るいところで見る女の人達はどのひとも服裝よりは老けた顏をしてゐたけれど、どのひとの服裝もちやんと東京の街に似合はしく調和がとれてゐた。幸福さうな人達だなともんは、自分も、いまにあんなになりたいと…

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