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崩浪亭主人
ほうろうていしゅじん
作品ID24362
著者林 芙美子
文字遣い旧字旧仮名
底本 「暗い花」 文藝春秋新社
1948(昭和23)年5月20日
初出「小説新潮」1947(昭和22年)10月号
入力者林幸雄
校正者花田泰治郎
公開 / 更新2005-09-05 / 2014-09-18
長さの目安約 20 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 砂風の吹く、うそ寒い日である。ホームを驛員が水を撒いてゐる。硝子のない、待合室の外側の壁に凭れて、磯部隆吉はぼんやりと電車や汽車の出入りを眺めてゐた。
 靴のさきが痛い。何だか冷たいものでも降つてきさうな空あひで、ホームの中央に吊りさがつてゐる電氣時計は、四時を一寸廻つて、四圍はもう昏さをたゞよはせて、如何にもあわたゞしい。若いうちは、中途半端な事に何の怖ろしさもなく、無性に自信を持つてゐたものだけれども、もう、五十の年をきいては、中途半端でゐる事は何よりも不安至極で、人間として少しも値打ちのないやうな空白を感じてくる。この懷つぶさに云ひがたしで、隆吉は、刻み煙草に火をつけながら、ぽつぽつ家へ戻らうかと思つた。
 磯部隆吾が、滿洲から、妙子を連れて引揚げて來たのは、一ヶ月ほど前であつた。誰一人身寄りもない日本ではあつたけれども、戻つてみると、故郷はありがたい。古い袷に手をとほしたやうなぬくぬくとしたものを感じた。妻の糸子は甲州のかじかざはと云ふところの生れださうだけれども、これとても、子供の頃に東京へ出て來てゐたので、そのかじかざはと云ふところの名前が、どんな文字で書かれるのかも判らなかつた。
 東京の病院で、看護婦をしてゐた糸子と二十五年前に結婚して、すぐ、滿洲に渡り、奉天を振り出しに、北滿の果てまで轉々と居を變へて終戰になつたのである。ハイラルでは四年ほど住んでゐた。驛近くで高級食料品店を開いてゐて、二十歳を頭に、三人の娘があつたのだけれども、女房と、中の娘は終戰と同時に肺患で亡くなり、長女は新京で行方知れずになり、末娘の妙子と二人で今日に到つた。妙子は十七歳で、日本の土地を一度もふんだ事のない娘であつた。
 同じ引揚船で苦樂をともにして戻つて來た仲間のうちに、滿鐵の社員で、年配も隆吉と同じ年頃の河邊亮太郎と云ふ男がゐた。家族は東京に殘したまゝであつたので、戻つてゆく栖家には不自由がない。戸山ヶ原の近くに五百坪ばかりの地所もあり、家も燒けのこつてゐた。磯部はひとまづ、河邊の家へ落ちついた。無一文、無財産ではあつたけれども根が樂天家で、朴を抱き眞を含めりで、どのやうな環境にもびくともしない心根は、長い間の大陸放浪から來てゐる無欲てんたんにあるのに違ひない。河邊の妻は、私立女學校の家政科の教師をしてゐたが河邊のやつかいな道連れを、あまり心よくは迎へてはくれなかつた。
 妙子のきてんで、母のかたみのダイヤの指輪をズボンの裾の縫目に、妙子は閉ぢこめておいた。髮の毛はぢやきぢやきに剪つて、中耳炎の如くよそほひ汚れた繃帶を頭からあごへ卷きつけて兩方の耳の中に、母のプラチナの時計一つと、金の指輪を一つはさみこんで隱して持つて來た。
 隆吉は何も知らなかつた。妙子は本當に耳が惡いのだと思つてゐた。繃帶はところどころ血がついて、煮〆たやうに汚れてゐた。十七の娘が、見るか…

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