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瀑布
ばくふ
作品ID24363
著者林 芙美子
文字遣い新字旧仮名
底本 「林芙美子全集 第15巻」 文泉堂出版
1977(昭和52)年4月20日
入力者林幸雄
校正者花田泰治郎
公開 / 更新2005-09-03 / 2014-09-18
長さの目安約 82 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 橋の上も、河添ひの道も、群集が犇めきあつてゐる。群集の後から覗いてみたが、澱んだ河の表面が、青黒く光つて見えるだけで、何も見えない。そのくせ群集は、折り重なるやうにして、水の上を覗いてゐる。何だらうと云ひあひながら、前の方へ押し出されたものは、見てしまつた安堵で、後から押される人間の力を振り切つて、犇めく人の間を、ぐんぐんと外側へ出て来てゐる。「何です?」いやにおもねるやうな尋づねかたで、訊くものもある。直吉も、人の切れ目のなかに肩を入れて、ぐいぐいと押されて、前の方へ吸ひ込まれて行つた。埃に汚れた八ツ手の葉が胸元へばらばらと葉を弾き寄せる。それを掻き分けて、ぐつと木柵に凭れるやうにして、河底を覗き込むと白つぽいものが、汚れた水の上に浮いてゐた。靄のかゝつた水の上に、人間が腕組みをして、ぽかりと浮いてゐた。よく見ると、大柄な男が、眼をつぶつて、浮袋の上に身動きもしない。男の様子が妙だつたので、突差には、その場のありさまが判然と呑みこめなかつたが、浮袋のわきに、酒場の名前をペンキで書いた、白い板が浮いてゐるのを眼にして、直吉は、なるほど、生きてゐる人間の商売なのかと、吻つとすると同時に、その男の悠々とした、たゞよひかたが、ひどく気に入つた。向ひ側のA新聞社の窓々からも、人の顔が覗いてゐた。狭い河底の一点は、ぐるりに群集を置いたまゝ、森閑と静まりかへつてゐる。宣伝の為に、水の上に寝転んでゐる男は、蒼い化粧をしてゐた。まるで死人のやうに見えた。孤独で寄辺のない生きながらの骸は、ゆつくり水の上で動いてゐる。細長い浮袋には、長い縄がついてゐて、石崖の杭に結びつけてある。久しぶりに外出して、直吉はすさまじい世相を見たが、その水の上の生ける骸に対して、直吉は、誘はれるやうな反射を受けた。四囲に、わあつと広告塔や、電車や自動車の音がけたゝましく響かなかつたら、その河底の骸は、深い谷川を流れてゆく姿にも見えて、惨酷な風趣だつた。直吉は、すぐにも立ち去る気にはなれなかつた。何時までも眼を閉ぢてゐるので、見降ろしてゐる方で退屈だつたが、群集は仲々散つて行かない。S橋の上では、進駐軍の兵隊も、驚いて何人も河底を覗き込んでゐる。石油臭い河水の匂ひが、四囲にこもつてゐた。割合大きい顔をした男だつた。白いY襯衣の胸を拡げて、黒い洋袴をはき、素足だつた。眠つてゐる。おだやかな表情である。直吉の後の方で、日当が五百円から、千円位ださうだねと云つてゐるものがあつた。それにしても、水の上に寝転ぶ芸当はよういな仕事ではない。見てゐるものゝ眼に、この河底の人生は、異様に写らないではなかつた。直吉は暫く木柵に凭れて、男の動き出すのを待つてゐたが、男は仲々起きる気配もなかつた。捨て身な構へでもある。時々唇のあたりに、微笑の表情が浮きあがつたが、水の上の男は、衆人環視のなかの己れの姿に、冷笑してゐるのか…

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