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障子の落書
しょうじのらくがき
著者
文字遣い新字新仮名
底本 「寺田寅彦全集 第一巻」 岩波書店
1996(平成8)年12月5日
初出「ホトトギス 第十一巻第四号」1908(明治41)年1月1日
入力者Nana ohbe
校正者松永正敏
公開 / 更新2004-04-14 / 2016-02-25
長さの目安約 7 ページ(500字/頁で計算)
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本文より

 平一は今朝妹と姪とが国へ帰るのを新橋まで見送って後、なんだか重荷を下ろしたような心持になって上野行の電車に乗っているのである。腰掛の一番後ろの片隅に寄りかかって入口の脇のガラス窓に肱をもたせ、外套の襟の中に埋るようになって茫然と往来を眺めながら、考えるともなくこの間中の出来事を思い出している。
 無病息災を売物のようにしていた妹婿の吉田が思いがけない重患に罹って病院にはいる。妹はかよわい身一つで病人の看護もせねばならず世話のやける姪をかかえて家内の用もせねばならず、見兼ねるような窮境を郷里に報じてやっても近親の者等は案外冷淡で、手紙ではいろいろ体の好い事を云って来ても誰一人上京して世話をするものはない。もとより郷里の事情も知らぬではないがあまりに薄情だと思って一時はひどく憤慨し人非人のように罵ってもみた。時にはこれも畢竟妹夫婦があんまり意気地がないから親類までが馬鹿にするのだと独りで怒ってみて、どうでもなるがいいなどと棄鉢な事を考える事もあったがさて病人の頼み少ない有様を見聞き、妹がうら若い胸に大きな心配を抱いて途方にくれながらも一生懸命に立働いているのを見ると、非常に可哀相になって、役所の行き帰りには立ち寄って何かと世話もし慰めてもやる。妻と下女とをかわるがわる手伝いにやっていたが、立入って世話しているとまた癪にさわる事が出来て、罪もない妹に当りちらす。しかし宅へ帰って考えるとそれが非常に気の毒になって矢も楯もたまらなくなる。こんな工合で不愉快な日を送っているうちに病人は次第に悪くなってとうとう亡くなってしまった。病院から引取って形ばかりでも葬式をすませ、妹と姪とを自宅に引取るまでの苦労を今更のように思い浮べてみる。
 殺風景な病室の粗末な寝台の上で最期の息を引いた人の面影を忘れたのでもない、秋雨のふる日に焼場へ行った時の佗しい光景を思い起さぬでもないが、今の平一の心持にはそれが丁度覚めたばかりの宵の悪夢のように思われるのである。
 妹を引取って後も、郷里との交渉やら亡き人の後始末やらに忙殺されて、過ぎた苦痛を味わう事は勿論、妹や姪の行末などの事もゆるゆる考える程の暇はなかった。妻と下女とで静かに暮していた処へ急に二人も増したのみならず、姪はいたずら盛りの年頃ではあり、家内は始終ゴタゴタするばかりでほとんど何事も手につかぬような有様であった。それがどうやら今日までで一先ず片付いて妹はともかく国の親類で引取る事になった。それで今朝汽車が出てしまって改札口へ引返すと同時に、なんだか気抜けがしたように、プラットフォームの踏心も軽く停車場を出ると空はよく晴れて快い日影を隠す雲もない。久し振りに天気のよい日曜である。宅へ帰ってどうすると云うあてもないので、銀座通りをぶらぶら歩き、大店のガラス窓の中を覗いてみたり雑誌屋の店先をあさってみたり、しばらくはほとんど何事も…

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