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イタリア人
イタリアじん
作品ID24429
著者寺田 寅彦
文字遣い新字新仮名
底本 「寺田寅彦全集 第一巻」 岩波書店
1996(平成8)年12月5日
初出「ホトトギス 第十一巻第七号」1908(明治41)年4月1日
入力者Nana ohbe
校正者川向直樹
公開 / 更新2004-07-11 / 2016-02-25
長さの目安約 9 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 今日七軒町まで用達しに出掛けた帰りに久し振りで根津の藍染町を通った。親友の黒田が先年まで下宿していた荒物屋の前を通った時、二階の欄干に青い汚れた毛布が干してあって、障子の少し開いた中に皺くちゃに吊した袴が見えていた。なんだかなつかしいような気がした。黒田が此処に居たのはまだ学校に居た頃からで、自分はほとんど毎日のように出入りしたから主婦とも古い馴染ではあるが、黒田が居なくなってからは妙に疎くなってしまって、今日も店に人の居なかったのを却って仕合せに声もかけずに通り過ぎた。しかしこの家の二階は何となくなつかしい、昔の香がする。二階と言って別に眺望が佳いのでもなければ、座敷が綺麗だという訳でもない。前にはコケラ葺や、古い瓦屋根に草の茂った貸長屋が不規則に並んで、その向うには洗濯屋の物干が美しい日の眼界を遮ぎる。右の方に少しばかり空地があって、その真上に向ヶ岡の寄宿舎が聳えて見える。春の頃など夕日が本郷台に沈んで赤い空にこの高い建物が紫色に浮き出して見える時などは、これが一つの眺めになったくらいのものである。しかし間近く上野をひかえているだけに、何処か明るい花やかなところもあった。花の時分などになると何となく春のどよみが森の空に聞えて窓の下を美しい人の群が通る事もあった。欄干にもたれて何かしんみりした話でもしている時、程近い時の鐘が重々しいうなりを伝え伝えて遠くに消えることもあった。
 いったい黒田は子供の時分から逆境に育ってずいぶん苦しい思いをして来た男だけに世間に対する考えもふけていて、深い眼の底から世の中を横に睨んだようなところがあった。観察の鋭いそしていつも物の暗面を見たがる癖があるので、人からはむしろ憚かられていたためか、平生親しく往来する友も少なかった。そのひねくれたようなところが妙に自分と気が合ったのも不思議である。自分はどうかこうか世間並の坊ちゃんで成人し、黒田のような苦労の味をなめた事もない。黒田の昔話を小説のような気で聞いていた。月々郷里から学資を貰って金の心配もなし、この上気楽な境遇はなかった筈であるが、若い心には気楽無事だけでは物足りなかった。きまりきった日々の課業をして暇な時間を無意味に過すと云うような事がむしろ堪え難い苦痛であった。ただ何かしら絶えず刺戟が欲しい。快楽とか苦痛とか名の付くようなものでなく、何んだか分らぬ目的物を遠い霞の奥に望んで、それをつかまえよう/\としていた。小説を読んだり白馬会を見に行ったりまた音楽会を聞きに行ったりしているうちには求めている物に近づいたような気がする事もあったが、つい眼の前の物に手の届かぬような悶かしい感じが残るばかりである。こんな事を話すと黒田はいつも快く笑って「青春の贅沢」は出来る時にしておくさと言った。半日も下宿に籠って見厭きた室内、見厭きた庭を見ていると堪えられなくなって飛び出す。黒田を…

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