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映画芸術
えいがげいじゅつ
著者
文字遣い新字新仮名
底本 「寺田寅彦随筆集 第三巻」 岩波文庫、岩波書店
1948(昭和23)年5月15日、1963(昭和38)年4月16日第20刷改版
初出「日本文学」1932(昭和7)年8月
入力者(株)モモ
校正者かとうかおり
公開 / 更新2003-04-18 / 2014-09-17
長さの目安約 55 ページ(500字/頁で計算)
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本文より

     緒言

 映画はその制作使用の目的によっていろいろに分類される。教育映画、宣伝映画、ニュース映画などの名称があり、またこれらのおのおのの中でもいろいろな細かな分類ができる。しかしこれらの特殊な目的で作られた映画でも、それが広義における芸術的価値のないものであれば、それは決してその目的を達することができない。そういう意味においてすべての種類の映画の制作はやはり広義における映画芸術の領域に属するものと思われるから、ここではそういう便宜上の種別を無視して概括的に考えることにする。
 映画は芸術と科学との結婚によって生まれた麒麟児である。それで映画を論ずる場合に映画の技術に関する科学的の基礎と、その主要なテクニークについて一通りの解説をするのが順序であるが、この一編の限られた紙数の中にこれを述べている余地がないから、ここではいっさいこれらを省略する。しかし大多数の読者がこの点について一通りの予備知識を備えているものと仮定してもおそらくたいした不都合はあるまいと思う。
 ついでながら、自分のような門外漢がこの講座のこの特殊項目に筆を染めるという僣越をあえてするに至った因縁について一言しておきたいと思う。元来映画の芸術はまだ生まれてまもないものであってその可能性については、従来相当に多数な文献があるにもかかわらず、まだ無限に多くのものが隠され拾い残されているであろうと思われる。従って、かえってそういう文献などに精通しない門外漢の幼稚な考察の中からいくらかでも役に立つような若干の暗示が生まれうるプロバビリティーがあるかもしれないと思われる。また一方で自分は、従来自分の目にふれたわが国での映画芸術論には往々日本人ばなれのしたものが多いようであって、日本の歴史と国民性を通して見た映画の理論的考察が割合に少ないように思われるのを遺憾としていた。それで、もし多少でもそういう方面からの研究の端緒ともなるべきものに触れることができればしあわせだと思ったのである。
 もう一つ断わっておく必要のあるのは、発声映画の問題である。始めから発声映画を取って考えるのと、無声映画時代というものを経て来た後に現われた発声映画を考えるのとでは、考え方によほどな隔たりがある。しかしここでは実際の歴史に従ってまず無声映画を考えた後に、改めて別に発声映画の問題に立ち入りたいと思う。
 なお映画に関しては経済学上からまた社会学上から見たいろいろな問題がある。しかもそれらの問題は必ずしも映画芸術上の問題と切り離して考えることができないものである。しかしこれらの重要な点にもここでは立ち入るべき余裕もなく、またそれはおそらく自分の任でもないから、全然省略して触れないことにする。これは遺憾ながらやむを得ない次第である。これについてはベーロ・ボラージュの「映画の精神」(B[#挿絵]la Bal[#挿絵]zs …

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