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北氷洋の氷の割れる音
ほっぴょうようのこおりのわれるおと
著者
文字遣い新字新仮名
底本 「寺田寅彦随筆集 第四巻」 岩波文庫、岩波書店
1948(昭和23)年5月15日、1963(昭和38)年5月16日第20刷改版
初出「鉄塔」1933(昭和8)年1月
入力者(株)モモ
校正者かとうかおり
公開 / 更新2003-06-07 / 2014-09-17
長さの目安約 7 ページ(500字/頁で計算)
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本文より

 一九三二年の夏の間に、シベリアの北の氷海を一艘のあまり大きくない汽船が一隊の科学者の探険隊を載せて、時々行く手をふさぐ氷盤を押し割りながら東へ東へと航海していた。しかしその氷の割れる音は科学を尊重するはずの日本へ少しも聞こえなかった。満州問題、五・一五事件、バラバラ・ミステリーなどの騒然たる雑音はわれわれの耳を聾していたのである。ところが十一月になってスクリューを失った一艘の薄ぎたない船が漁船に引かれて横浜へ入港した。船の名はシビリアコフ号、これがソビエト政府の北氷洋学術研究所所属の科学者数名を載せて北氷洋をひと夏に乗り切ったものであるということが新聞で報ぜられた。それでもわれわれはまだかの有名なバラバラ事件の解決以上の興味を刺激されることもなくて実にのんきにぼんやりしていたのである。
 O氏の主催で工業クラブに開かれた茶の会で探険隊員に紹介されてはじめて自分のぼんやりした頭の頂上へソビエト国の科学的活動に関する第一印象の釘を打ち込まれたわけである。
 隊長シュミット氏は一行中で最も偉大なる体躯の持ち主であって、こういう黒髪黒髯の人には珍しい碧眼に深海の色をたたえていた。学術部長のウィーゼ博士は物静かで真摯ないかにも北欧人らしい好紳士で流暢なドイツ語を話した。この人からいろいろ学術上の仕事の話を聞いた後に「日光は見たか」と聞いたら「否」、「芝居は」と聞いたら「否」と答えたきりで黙ってしまった。海流の研究の結果から氷洋の中に未見の島の存在を予報したこの人には「日光」や「カブキ」は問題にならなかった。地球磁力や気象の観測を受け持って来たただ一人の婦人部員某夫人は、男のように短く切りつめた断髪で、青い着物を着ていた。どこか小鳥のような感じのする人で仏語のほかは話さなかったようである。そのほかの若い生物学者や地質学者やみんなまじめで上品で気持ちのいい人たちであった。日本のマルキシストなどとはだいぶちがった感じのする人たちであった。映画監督のシュネイデロフ氏はだれも格好な話し相手がなくて、すみのほうの椅子に押し黙って所在なさそうに見えた。日本の学者たちの、この人にはおそらくはなはだ珍しかったであろうと思われる風貌を彼一流のシネマの目で観察していたことであろう。
 その翌日また別の席でこれらの人たちと晩餐を共にしてシュミット、ウィーゼ両氏の簡単な講演を聞く機会を得た。
 北極をめぐる諸科学国が互いに協力して同時的に気象学的ならびに一般地球物理学的観測を行なういわゆるインターナショナル・ポーラー・イヤーに際会してソビエト政府は都合八組の観測隊を北氷洋に派遣した。その中の数隊は極北の島々にそれぞれの観測所を設けて地磁気や気象の観測をしたり、あるいは火薬の爆発によって人工地震波を作りそれを地震計で観測した結果から氷盤の厚さを測定したり、あるいはまた近ごろ学界の問題になってい…

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