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火事教育
かじきょういく
作品ID2476
著者寺田 寅彦
文字遣い新字新仮名
底本 「寺田寅彦随筆集 第四巻」 岩波文庫、岩波書店
1948(昭和23)年5月15日、1963(昭和38)年5月16日第20刷改版
初出1933(昭和8)年1月(初出記載なし)
入力者(株)モモ
校正者かとうかおり
公開 / 更新2003-08-28 / 2014-09-17
長さの目安約 9 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 旧臘押し詰まっての白木屋の火事は日本の火災史にちょっと類例のない新記録を残した。犠牲は大きかったがこの災厄が東京市民に与えた教訓もまたはなはだ貴重なものである。しかしせっかくの教訓も肝心な市民の耳に入らず、また心にしみなければあれだけの犠牲は全くなんの役にも立たずに煙になってしまったことになるであろう。今度の火災については消防方面の当局者はもちろん、建築家、百貨店経営者等直接利害を感ずる人々の側ではすぐに徹底的の調査研究に着手して取りあえず災害予防方法を講究しておられるようであるが、何よりもいちばんだいじと思われる市民の火災訓練のほうがいかなる方法によってどれだけの程度にできるであろうかという問題についてはほとんどだれにも見当さえつかないように見える。
 白木屋の火事の場合における消防当局の措置は、あの場合としては、事情の許す範囲内で最善を尽くされたもののように見える。それが事件の直前にちょうどこの百貨店で火災時の消防予行演習が行なわれていたためもあっていっそうの効力を発揮したようであるが、あの際もしもあの建物の中で遭難した人らにもう少し火災に関する一般的科学知識が普及しており、そうして避難方法に関する平素の訓練がもう少し行き届いていたならば少なくも死傷者の数を実際あったよりも著しく減ずることができたであろうという事はだれしも異論のないことであろうと思われる。そうしてまた実に驚くべく非科学的なる市民、逆上したる街頭の市民傍観者のある者が、物理学も生理学もいっさい無視した五階飛び降りを激励するようなことがなかったら、あたら美しい青春の花のつぼみを舗道の石畳に散らすような惨事もなくて済んだであろう。このようにして、白昼帝都のまん中で衆人環視の中に行なわれた殺人事件は不思議にも司直の追求を受けずまた市人の何人もこれをとがむることなしにそのままに忘却の闇に葬られてしまった。実に不可解な現象と言わなければなるまい。
 それはとにかく、実に幸いなことには事件の発生時刻が朝の開場間ぎわであったために、入場顧客が少なかったからこそ、まだあれだけの災害ですんだのであるが、あれがもしや昼食時前後の混雑の場合でもあったとしたら、おそらく死傷の数は十数倍では足りず、事によると数千の犠牲者を出したであろうと想像させるだけの根拠はある。考えてもぞっとする話である。しかしそういう場合であっても、もしも入場していた市民がそのような危急の場合に対する充分な知識と訓練を持ち合わせていて、そうしてかねてから訓練を積んだ責任ある指揮者の指揮に従って合理的統整的行動を取ることができれば、たとえ二万人三万人の群集があっても立派に無事に避難することが可能であるということは簡単な数理からでも割り出されることであると思う。火の伝播がいかに迅速であるとしても、発火と同時に全館に警鈴が鳴り渡りかねてから手ぐす…

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