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デカダン抗議
デカダンこうぎ
作品ID254
著者太宰 治
文字遣い新字新仮名
底本 「太宰治全集3」 ちくま文庫、筑摩書房
1988(昭和63)年10月25日
初出「文芸世紀」1939(昭和14)年11月
入力者柴田卓治
校正者小林繁雄
公開 / 更新1999-10-26 / 2014-09-17
長さの目安約 8 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 一人の遊蕩の子を描写して在るゆえを以て、その小説を、デカダン小説と呼ぶのは、当るまいと思う。私は何時でも、謂わば、理想小説を書いて来たつもりなのである。
 大まじめである。私は一種の理想主義者かも知れない。理想主義者は、悲しい哉、現世に於いてその言動、やや不審、滑稽の感をさえ隣人たちに与えている場合が、多いようである。謂わば、かのドン・キホオテである。あの人は、いまでは、全然、馬鹿の代名詞である。けれども彼が果して馬鹿であるか、どうかは、それに就いては、理想主義者のみぞよく知るところである。高邁の理想のために、おのれの財も、おのれの地位も、塵芥の如く投げ打って、自ら駒を陣頭にすすめた経験の無い人には、ドン・キホオテの血を吐くほどの悲哀が絶対にわからない。耳の痛い仁も、その辺にいるようである。
 私の理想は、ドン・キホオテのそれに較べて、実に高邁で無い。私は破邪の剣を振って悪者と格闘するよりは、頬の赤い村娘を欺いて一夜寝ることの方を好むのである。理想にも、たくさんの種類があるものである。私はこの好色の理想のために、財を投げ打ち、衣服を投げ打ち、靴を投げ打ち、全くの清貧になってしまった。そうして、私は、この好色の理想を、仮りに名付けて、「ロマンチシズム」と呼んでいる。
 すでに幼時より、このロマンチシズムは、芽生えていたのである。私の故郷は、奥州の山の中である。家に何か祝いごとがあると、父は、十里はなれたAという小都会から、四、五人の芸者を呼ぶ。芸者たちは、それぞれ馬の背に乗ってやって来る。他に、交通機関が無いからである。時々、芸者が落馬することもあった。物語は私が、十二歳の冬のことであった。たしか、父の勲章祝いのときであった。芸者が五人、やって来た。婆さんが一人、ねえさんが二人、半玉さんが二人である。半玉の一人は、藤娘を踊った。すこし酒を呑まされたか、眼もとが赤かった。私は、その人を美しいと思った。踊って、すらと形のきまる度毎に、観客たちの間から、ああ、という嘆声が起り、四、五人の溜息さえ聞えた。美しいと思ったのは私だけでは無かったのである。
 私は、その女の子の名前を知りたいと思った。まさか、人に聞くわけにいかない。私は十二の子供であるから、そんな、芸者などには全然、関心の無いふりをしていなければ、ならぬのである。私は、こっそり帳場へ行って、このたびの祝宴の出費について、一切を記して在る筈の帳簿をしらべた。帳場の叔父さんの真面目くさった文字で、歌舞の部、誰、誰、と五人の芸者の名前が書き並べられて、謝礼いくら、いくらと、にこりともせず計算されていた。私は五人の名前を見て、一ばんおしまいから数えて二人めの、浪、というのが、それだと思った。それにちがいないと思った。少年特有の、不思議な直感で、私は、その女の子の名前を、浪、と定めてしまって、落ちついた。
 いまに…

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