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道化の華
どうけのはな
著者
文字遣い旧字旧仮名
底本 「太宰治全集2」 筑摩書房
1998(平成10)年5月25日
初出「日本浪漫派 第一巻第三号」1935(昭和10)年5月号
入力者赤木孝之
校正者小林繁雄
公開 / 更新1999-07-13 / 2016-02-23
長さの目安約 72 ページ(500字/頁で計算)
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本文より

「ここを過ぎて悲しみの市。」
 友はみな、僕からはなれ、かなしき眼もて僕を眺める。友よ、僕と語れ、僕を笑へ。ああ、友はむなしく顏をそむける。友よ、僕に問へ。僕はなんでも知らせよう。僕はこの手もて、園を水にしづめた。僕は惡魔の傲慢さもて、われよみがへるとも園は死ね、と願つたのだ。もつと言はうか。ああ、けれども友は、ただかなしき眼もて僕を眺める。
 大庭葉藏はベツドのうへに坐つて、沖を見てゐた。沖は雨でけむつてゐた。
 夢より醒め、僕はこの數行を讀みかへし、その醜さといやらしさに、消えもいりたい思ひをする。やれやれ、大仰きはまつたり。だいいち、大庭葉藏とはなにごとであらう。酒でない、ほかのもつと強烈なものに醉ひしれつつ、僕はこの大庭葉藏に手を拍つた。この姓名は、僕の主人公にぴつたり合つた。大庭は、主人公のただならぬ氣魄を象徴してあますところがない。葉藏はまた、何となく新鮮である。古めかしさの底から湧き出るほんたうの新しさが感ぜられる。しかも、大庭葉藏とかう四字ならべたこの快い調和。この姓名からして、すでに劃期的ではないか。その大庭葉藏が、ベツドに坐り雨にけむる沖を眺めてゐるのだ。いよいよ劃期的ではないか。
 よさう。おのれをあざけるのはさもしいことである。それは、ひしがれた自尊心から來るやうだ。現に僕にしても、ひとから言はれたくないゆゑ、まづまつさきにおのれのからだへ釘をうつ。これこそ卑怯だ。もつと素直にならなければいけない。ああ、謙讓に。
 大庭葉藏。
 笑はれてもしかたがない。鵜のまねをする烏。見ぬくひとには見ぬかれるのだ。よりよい姓名もあるのだらうけれど、僕にはちよつとめんだうらしい。いつそ「私」としてもよいのだが、僕はこの春、「私」といふ主人公の小説を書いたばかりだから二度つづけるのがおもはゆいのである。僕がもし、あすにでもひよつくり死んだとき、あいつは「私」を主人公にしなければ、小説を書けなかつた、としたり顏して述懷する奇妙な男が出て來ないとも限らぬ。ほんたうは、それだけの理由で、僕はこの大庭葉藏をやはり押し通す。をかしいか。なに、君だつて。

 一九二九年、十二月のをはり、この青松園といふ海濱の療養院は、葉藏の入院で、すこし騷いだ。青松園には三十六人の肺結核患者がゐた。二人の重症患者と、十一人の輕症患者とがゐて、あとの二十三人は恢復期の患者であつた。葉藏の收容された東第一病棟は、謂はば特等の入院室であつて、六室に區切られてゐた。葉藏の室の兩隣りは空室で、いちばん西側のへ號室には、脊と鼻のたかい大學生がゐた。東側のい號室とろ號室には、わかい女のひとがそれぞれ寢てゐた。三人とも恢復期の患者である。その前夜、袂ヶ浦で心中があつた。一緒に身を投げたのに、男は、歸帆の漁船に引きあげられ、命をとりとめた。けれども女のからだは、見つからぬのであつた。その女のひとを…

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