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帰つてから
かえってから
作品ID2553
著者与謝野 晶子
文字遣い新字旧仮名
底本 「新小説」 春陽堂
1913(大正2)年2月号
入力者武田秀男
校正者門田裕志
公開 / 更新2003-02-22 / 2014-09-17
長さの目安約 42 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 浜松とか静岡とか、此方へ来ては山北とか、国府津とか、停車する度に呼ばれるのを聞いても、疲労し切つた身体を持つた鏡子の鈍い神経には格別の感じも与へなかつたのであつたが、平沼と聞いた時にはほのかに心のときめくのを覚えた。それは丁度ポウトサイド、コロンボと過ぎて新嘉坡に船の着く前に、恋しい子供達の音信が来て居るかも知れぬと云ふ望に心を引かれたのと一緒で自身のために此処迄来て居る身内のあるのを予期して居たからである。鏡子の伴は文榮堂書肆の主人の畑尾と、鏡子の良人の靜の甥で、鏡子よりは五つ六つ年下の荒木英也と云ふ文学士とである。畑尾は何かを聞いた英也に、
『ああさうです、さうです。此処に来てゐる筈です。』
 と[#「と」は底本では「ど」]点頭きながら云つて、つと立つて戸口を開けて外へ出た、英也も続いて出て行つたらしい、白つぽい長外套の裾が今目を過つたのは其人だらうと鏡子は身を横へた儘で思つて居た。目の半は氷を包んで額へ置いたタオルで塞がれて居るのである。
『あつ、坊ちやんが来やはつた。』
 遠い所でかう云つた畑尾の声[#ルビの「こひ」はママ]が鏡子の耳に響いた。迸るやうな勢で涙の出て来たのはこれと同時であつた。暫くしてから氷に手を添へた心程身を起して気恥しさうに鏡子が辺を見廻した時、まだ新しい出迎人も旧の伴の二人も影は見えなかつた。国府津で一緒になつた新聞記者が二人向側に腰を掛けて居るので、この人等には病のために談が出来ないと断つてあるのであるから、急に元気附いたら厭な気持を起させるに違ひないと思つて、起き上りたい身体を其儘にしてじつとして居ると、開いた戸口から寒い風が入つて来た。
『これで安心致しました。真実にどうなつてはるのやろと心配したことでありませんでしたけれど。』
『直ぐ行つて下すつたので、船が一日早かつたにも係[#ルビの「かゝは」は底本では「かゝら」]らず間に合つて結構でした。あなたもお疲れでせう。』
『どう致しまして、荒木さんも神戸迄来て下さいまして、それから又随いて来てくれはつたのです。』
『さうですか、英也が。』
 列車の外で清と畑尾とはこんな談話をして居たのである。
『やあ。』
『御機嫌よう。』
 と声を掛けたのを初めに、英也と季の叔父の清とは四五年振に身体をひたひたと寄せてなつかしげに語るのであつた。
『坊ちやん。何時に起きて来やはつたのです。』[#「です。』」は底本では「です。」]
 二人の立つた傍を一廻りして、それから畑尾は滿に話しかけた。[#「話しかけた。」は底本では「話しかけた。』」]
『五時。』
 滿は元気よく云つた。
『五時、早いのだすなあ、外の坊ちやんやお嬢さんは新橋に来てはりますか。』
『晨と榮子は家に居る。』
『外の方は来てはるのだすやろ。』
『どうだか。』
 と滿は小首を傾げて云ふ。
『それは来てはりますとも。』
『さう、畑…

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