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梅原良三郎氏のモンマルトルの画室
うめはらりょうさぶろうしのモンマルトルのがしつ
著者
文字遣い新字旧仮名
底本 「科学と文芸」 交響社
1915(大正4)年10月号
入力者武田秀男
校正者門田裕志
公開 / 更新2003-02-12 / 2014-09-17
長さの目安約 3 ページ(500字/頁で計算)
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本文より

僕は僕の下宿の路次の
僕の薄暗い穴から出た。
そして直ぐ左隣の家の
硝子戸をそつと押して入つた。
階下の廊の左側の室から
門番のお上の顔が僕を見て微笑んだ、
僕の顔も微笑んだ。
僕は直ぐ狭い中庭へ出た。
四方を高い建物で劃られて、
井戸の底へ落ち込んだやうな処だ。
正面に入口の石段があつて、
此中庭から此家の六層の階段が始まる。
僕は之を昇らうとする度に
何時も、入口の石段で
ちよいと軽く気を入れながら、
立ち止りもせずに
ぐん/\と昇つて行く。
階段を一つ曲る毎に
狭い中庭へ向いて附いた硝子窓が
だん/\明るさを増して、
僕に地上からせり出しつつあると云ふ意識を
確かにさせる。
其れは悪るくない感じだ。
そして、第五の階段にさしかかると
僕の脚が少し重く、
僕の動悸が少し高く、
僕の呼吸が少し疾くなる。
すると、僕に潜在して居る日本的突喊性が
のつそりと眼を覚して、
殆ど一呼吸で、
足早にあとの二つの階段を昇らせる。
今日も僕は同じ経過を取つた。
扉の上から
海老茶色の鈴の索が下つて居る。
何時見ても
長い紐鶏頭の花を吊したやうだ。
僕は太い呼吸を気持よく吐きながら、
静かに索を握つて二度引いた。

扉が内から開いた。
「ボン・ジュウル、」
「ボン・ジュウル、」
「描いて居るんぢやないの」、
「いいや、モデルが来ないから」、
二人は手を握つた。
友は何時ものやうに、
薄地の紺の仕事服の上へ、
褪めて落ちついた緋の色の大幅の襦子を
印度の袈裟のやうに、
希臘の衣のやうに、
左の肩から右の脇へ巻いて居る。
そして又何時ものやうに、
愛着的な、優雅な、
細心な、
そして凛々しい表情と態度とが
おゝ我が友よ、僕をして
ナルシスの愛と美を想はせる。

三方を塞いだ、
天井の高い、
そして広々とした画室は
大岩窟の観がある。
そして大きな画架、
青い天鷺絨張りのモデル台、
卓、置暖炉、花瓶、
肱掛椅子、いろ/\の椅子、
紙片、画布、其等の物が雑然と人り乱れ、
麝香撫子と、絵具と、
酒と、テレピン油とが
匂ひの楽を奏する中に、
壁から、隅々から、
友の描いた
衣を脱がうとする女、
川に浴する女
仰臥の女、匍ふ女、
赤い髪の女、
太い腕の女、
手紙を書く女、
編物をする女、
そして画架に書きさした赤い肌衣の女、
其等の裸体、半裸体の女等と、
マントンの海岸、
ブルタアニユの「愛の森、」
ゲルンゼエ島の牧場、村道、岩の群、
グレエの森、石橋、
其等の風景と、
赤い菊、赤い芍薬、
アネモネの花、薔薇、
林檎と蜜柑、
梨、
其等の静物とが
見とれる如く、あまえる如く、
誘る如く、
熱い吐息を彼れに投げ掛ける如く、
彼れの一挙一動に目を放さぬ如く、
我が美くしいナルシスの画家を取巻いて居る。
そして一方の
南向の窓の硝子越しに、
四月の巴里が水色に霞んで、
低く、低く、海のやうに…

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