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蔵書家の話
ぞうしょかのはなし
作品ID2608
著者内藤 湖南
文字遣い旧字旧仮名
底本 「内藤湖南全集 第十二卷」 筑摩書房
1970(昭和45)年6月25日
初出「書物の趣味 第一册」1927(昭和2)年11月
入力者はまなかひとし
校正者菅野朋子
公開 / 更新2001-08-30 / 2016-04-21
長さの目安約 7 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 清朝はその初頃から有名な藏書家が多く、錢謙益及その族孫錢曾、又は季振宜などは、順治より康煕の初年に有名であるが、併し藏書家の最盛期は乾隆の中頃以後にあるので、乾隆の末から嘉慶を經て、道光の初頃まで居つた蘇州の黄丕烈は最も有名で、殆ど清朝を通じて第一の藏書家と言つてよいのである。
 黄丕烈は宋版の本百餘種を得て、百宋一廛と號した。この頃の藏書家は、單に收藏の多きに誇るのみでなく、又多く古版の本を得ることを努めて、而もその上に古版を以て通行の本を校勘することを努めた。この黄丕烈は、その點に於ても最も名高い人であるが、この人の刻した士禮居叢書は、多くは宋版その他古版の本を飜刻して、精巧を極めたので、清朝に出版された叢書の中でも最も善い本と言はれ、今日に於てはその値の高きことも、殆ど古版の本に匹敵するほどで、我國に傳來したものは恐らく二部位に過ぎない。
 この人達は又藏書の事に就て色々の趣味あることを企て、百宋一廛については、當時古書の校勘に於て第一人者と稱せられた顧廣圻は、百宋一廛賦といふものを作つてその藏書の富んでゐることを褒め立てなどしたので、當時の藏書家の間にもてはやされた事であるが、黄丕烈は又嘉慶年間に、十年ほど引續いて祭書といふことを始めた。即ち黄氏には讀未見書齋といふ書齋があつたが、其處で祭書をやつた。その後になつて、士禮居で祭書をしたこともある。その祭をする毎に必ず圖を作り、その友人なる學者達に、圖説を作らせたのであるが、前に言つた顧廣圻も、士禮居祭書の詩といふものがあつて、今に傳つてゐる。昔唐の賈島は、年の終に、一年間作つた詩を自ら祭つたといふ事が傳へられて、一つの文壇の佳話となつてゐるが、祭書といふことを始めたのは黄丕烈からで、これも文壇の佳話に相違ない。この人の藏書は、その後展轉して今日支那・日本に於ける藏書家の中にも傳はつてゐるものがあるが、これはその人が死んだ後に散亂したのは勿論なるも、死んだ後ばかりでなく、其人の生存中に既に人手に渡つたものもあるのである。支那人の藏書などを好む人は、多くは黄丕烈の如く讀書家で、又校勘の好きな人であつて、日本などの如く、金があつて、讀めない本を澤山蒐めるのとは違つてゐるので、多少財産のある人でも、全力を擧げて書籍を蒐める結果、晩年には多く貧乏になつて、自然に書籍を賣らねばならなくなる。黄丕烈なども、五十歳以後は大分金に窮したらしく、當時(嘉慶の末頃に)新に起つて來た藏書家、汪士鐘に色々な珍本を賣つたことがその年譜に見えてゐ、後に自分が賣つた本を、汪士鐘から借りて校勘したりなどしてゐる。勿論然うかといつて、古書を蒐めることを絶對に止めてゐるのではないが、一方賣りながら、一方買ひ集めてゐるのである。ごく晩年(道光五年)その六十三歳の時には、自分で本屋を開店してゐるが、到頭この年に亡くなつた。
 前に言つた汪士…

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