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樹木とその葉
じゅもくとそのは
副題20 貧乏首尾無し
20 びんぼうしゅびなし
著者
文字遣い旧字旧仮名
底本 「若山牧水全集 第七卷」 雄鷄社
1958(昭和33)年11月30日
入力者柴武志
校正者浅原庸子
公開 / 更新2001-03-20 / 2014-09-17
長さの目安約 7 ページ(500字/頁で計算)
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本文より

貧しとし時にはなげく時としてその貧しさを忘れてもをる
ゆく水のとまらぬこころ持つといへどをりをり濁る貧しさゆゑに
 小生の貧困時代は首尾を持つてゐない。だからいつからいつまでとそれを定める由もない。そんな状態であるために殆んどまたそれに對する感覺といふものをも失つて居る觀がある。從つてオイソレとその記憶を持ち出して來ることが困難である。止むなくこれを細君にたづね相談して見た。
 流石に彼女にはあの時はあゝであつた、あそこでは斯うであつたといふ相當に生々しい感傷がある樣である。然しそれとても尋ねられたから思ひ出した程度のもので、要するに亭主同樣この永續的貧乏に對しては極めてノン氣であるらしい。
 早稻田の學校を出たのはたしか二十四歳であつた。學校にゐる間も後半期は郷里からの送金途絶えがちであつたので半分自ら稼いで過してゐた。學校を出ると程なく京橋區の或る新聞社に勤めた。
 月給は二十五圓であつた。社命で止むなく大嫌ひの洋服を月賦で作つたが、ネクタイを買ふ錢がなく、それ拔きで着て出てゐたところ――さうだ、靴をば永代靜雄君のを借りて穿いたのだつた――社の古老田村江東氏が見兼ねて自分のお古を持つて來て結んで呉れた。居ること約半年、社内に動搖があつて七人ほど打ち揃うて其處を出た。そしてまた間もなく同區内の他の新聞社に出ることになつた。ところが前のと違つてどうもその社内の空氣が面白くなく、前社同樣二十五圓の月給をば二箇月分か貰つたが出社して事務をとつたのは僅々五六日であつた。
 それから暫く浪人してゐてやがて短歌中心の文藝雜誌『創作』を京橋の東雲堂から發刊する事になつた。編輯を續けること四五ヶ月、漸く雜誌の基礎も定まる樣になると月並で煩雜なその仕事がイヤになり、それをば他の友人に讓つておいて所謂「放浪の旅」に出た。三四年間の豫定で、各地の歌人を訪ねながら日本全國を[#挿絵]つて來ようといふのであつた。
 先づ甲州に入り、次いで信州に[#挿絵]つたところ、運わるく小諸町で病氣に罹つた。そして其處の或るお醫者の二階に二ヶ月ほども厄介になつてゐた。出立早々病氣に罹つた事が、いかにも出鼻を挫かれた氣持で、折角企てた永旅もまたイヤになつて東京へ引返して來、當時月島の端に長屋住居をしてゐた佐藤緑葉君の家に身を寄せた。初冬の寒い頃であつた。或日彼の細君から「若山さん、二圓あるとお羽織が出來ますがねエ」と言つて嘆かれた事を不圖いま思ひ出した。その前後であつたのだらう、北原白秋君の古羽織を借りたが借り流しにしたかの事も續いて思ひ出されて來た。
 それから再び『創作』の編輯をやることになり、飯田河岸の、砲兵工廠の眞向ひに當る三階建の古印刷所の三階の一室を間借して住む事になつた。あのどろ/\に濁つた古濠の上に傾斜した古家屋の三階のこととて、二三人も集つて坐りつ立ちつすればゆらつくといふ實に危…

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