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薄明
はくめい
作品ID263
著者太宰 治
文字遣い新字新仮名
底本 「太宰治全集8」 ちくま文庫、筑摩書房
1989(平成元)年4月25日
初出新紀元社刊、1946(昭和21)年12月
入力者柴田卓治
校正者ゆうこ
公開 / 更新2000-03-21 / 2014-09-17
長さの目安約 19 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 東京の三鷹の住居を爆弾でこわされたので、妻の里の甲府へ、一家は移住した。甲府の妻の実家には、妻の妹がひとりで住んでいたのである。
 昭和二十年の四月上旬であった。聯合機は甲府の空をたびたび通過するが、しかし、投弾はほとんど一度も無かった。まちの雰囲気も東京ほど戦場化してはいなかった。私たちも久し振りで防空服装を解いて寝る事が出来た。私は三十七になっていた。妻は三十四、長女は五つ、長男はその前年の八月に生れたばかりの二歳である。これまでの私たちの生活も決して楽ではなかったが、とにかく皆、たいした病気も怪我もせずに生きて来た。せっかくいままで苦労を忍んで生きて来たのだから、なおしばらく生きのびて世の成り行きを見たいものだという気持は私にもあった。しかし、それよりも、女房や子供がさきにやられて、自分ひとり後に残されてはかなわんという気持のほうが強かった。それは、思うさえ、やりきれない事である。とにかく妻子を死なせてはならない。そのために万全の措置を講じなければならぬ。しかし、私には金が無かった。たまに少しまとまったお金がはいる事があっても、私はすぐにそのお金でもってお酒を飲んでしまうのである。私には飲酒癖という非常な欠点があったのである。その頃のお酒はなかなか高価なものであったが、しかし、私は友人の訪問などを受けると、やっぱり昔のように一緒にそわそわ外出して多量のお酒を飲まずには居られなかった。これでは、万全の措置も何もあったものでない。多くの人々がその家族を遠い田舎に、いち早く疎開させているのを、うらやましく思いながら、私は金が無いのと、もう一つは気不精から、いつまでも東京の三鷹で愚図々々しているうちに、とうとう爆弾の見舞いを受け、さすがにもう東京にいるのがイヤになって、一家は妻の里へ移転した。そうして、全く百日振りくらいで防空服装を解いて寝て、まあこれで、ここ暫くは寒い夜中に子供たちを起して防空壕に飛び込むような事はしなくてすむと思うと、これからさきに於いてまだまだ様々の困難があるだろう事は予想せられてはいても、とにかくちょっと安堵の溜息をもらしたという形であったのである。
 しかし、私たちは既に「自分の家」を喪失している家族である。何かと勝手の違う事が多かった。自分もいままで人並に、生活の苦労はして来たつもりであるが、小さい子供ふたりを連れて、いかに妻の里という身近かな親戚とは言え、ひとの家に寄宿するという事になればまた、これまで経験した事の無かったような、いろいろの特殊な苦労も味った。甲府の妻の里では、父も母も亡くなり、姉たちは嫁ぎ、一ばん下の子は男で、それが戸主になっているのだが、その二、三年前に大学を出てすぐ海軍へ行き、いま甲府の家に残っている者は、その男の子のすぐ上の姉で、私の妻のすぐの妹という具合いになっている二十六だか七だかの娘がひとり住んでい…

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