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山と雪の日記
やまとゆきのにっき
作品ID2640
著者板倉 勝宣
文字遣い新字新仮名
底本 「山と雪の日記」 中公文庫、中央公論社
1977(昭和52)年4月10日
入力者林幸雄
校正者田口彩子
公開 / 更新2001-12-08 / 2014-09-17
長さの目安約 22 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

   夏の日記

      大正池

 峰々の谷に抱かれた雪の滴を集めて流れて、梓川は細長い上高地の平原を、焼岳の麓まできた時に、神の香炉から流れ出たラヴァはたちまちにその流れを阻んだ。岩に激してきた水は、焼岳の麓の熊笹をひたし、白樺の林をひたして対岸の霞沢岳の麓に及んだ。いままでゴーゴーと流れる谷川の水はここにきて、たちまち死んだようになみなみとたたえた緑藍色の湖の中に吸いこまれて行く。その中に枯れた白樺の林が、ツクツク影を写して立つ。焼の麓の岸は急で、熊笹は水の中までつかっている。池の辺の熊笹は、丈より高かった。中をわけて行くと、ガサゴソと大変やかましい音がして、世の中は熊笹の音ばかりになってしまう。岸に出た。むやみと急である。ずれ落ちると濃藍の、このうすきみの悪い水に落ちなければならない。やっと、水の辺に下りて、やや平らな中に熊笹をわけて腰を下ろした。光線のさしこんだところはグリーンから底に行くほど、藍色に変って行く。そしてその中に、いわなの斑点のある身体が、二匹も三匹も動いている。鰭の動くのさえ鰓のひらくのさえ見える。この水の上に、小さな虫が落ちると、今まで下の方ですましていた奴が、いきなり上を向いて突進してくる。パクッと、あたりの静けさを破る音とともに、虫は水の下へ、魚の腹へ、消えて行く。一面にたたえた水をへだてて、対岸に霞沢岳、左手に岩ばかりの穂高の頭が雲の中に出ている。Y字形の雪谷と、その上に噛みあった雪とが、藍色の水と相対して、一種の凄みがある。水の中に立った白樺のめぐりを、水にすれすれに円を画いて五、六匹の白蝶が、ひらひらひらとたわむれていたが、そのうちの一匹は、力がつきたのか、水の上にぱたりと落ちた。疲れた翼を励まして水を打ったが、二、三寸滑走してまた落ちた。ぱたぱたぱた水の中でもがく。友に救いを求めるように。そしてその小さな波が、岸の熊笹の葉を動かした時に、パッと音がして白蝶の姿は藍色の水に吸いこまれた。あとに小さな渦が一つ、二、三寸、左のほうへ動いて行って、スーッと消えた。霞沢岳の影と白樺の影が、一緒になって、ぶるぶると震えている。哀れとはこんな感じであろう。あたりは、いたって静かだ。相変らず蝶を呑むいわなが水の中を動いている。水の中に悪魔がいる。大正池は魔の池である。

      上高地の月

 井戸の中の蛙が見たら、空はこんなにも美しいものかと、私はいつも上高地の夜の空を見るたびに思った。空の半分は広い河原を隔てて、僅か六町さきの麓から屏風のようにそそり立った六百山と霞沢岳のためにさえぎられて、空の一部しか見ることができない。夜になると、この六百と霞がまっ黒にぬりつぶざれて、その頂上に悪魔の歯を二本立てたような岩が、うす白く輪かくを表わす。そしてこの大きな暗黒の下に、広い河原を流れる梓川の音が凄く、暗闇に響く。ある日この頂上の…

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