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火の鳥
ひのとり
作品ID269
著者太宰 治
文字遣い新字旧仮名
底本 「太宰治全集第二巻」 筑摩書房
1989(平成元)年8月25日
初出「愛と美について」竹村書房、1939(昭和14)年5月20日
入力者西田
校正者山本奈津恵
公開 / 更新2000-05-03 / 2014-09-17
長さの目安約 77 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

序編には、女優高野幸代の女優に至る以前を記す。

 昔の話である。須々木乙彦は古着屋へはひつて、君のところに黒の無地の羽織はないか、と言つた。
「セルなら、ございます。」昭和五年の十月二十日、東京の街路樹の葉は、風に散りかけてゐた。
「まだセルでも、をかしくないか。」
「もつともつとお寒くなりましてからでも、黒の無地なら、をかしいことはございませぬ。」
「よし。見せて呉れ。」
「あなたさまがお召しになるので?」角帽をあみだにかぶり、袖口がぼろぼろの学生服を着てゐた。
「さうだ。」差し出されたセルの羽織をその学生服の上にさつと羽織つて、「短かくないか。」五尺七寸ほどの、痩せてひよろ長い大学生であつた。
「セルのお羽織なら、かへつて少し短かめのはうが。」
「粋か。いくらだ。」
 羽織を買つた。これで全部、身仕度は出来た。数時間のち、須々木乙彦は、内幸町、帝国ホテルのまへに立つてゐた。鼠いろのこまかい縞目の袷に、黒無地のセルの羽織を着て立つてゐた。ドアを押して中へはひり、
「部屋を貸して呉れないか。」
「は、お泊りで?」
「さうだ。」
 浴室附のシングルベツドの部屋を二晩借りることにきめた。持ちものは、籐のステツキ一本である。部屋へ通された。はひるとすぐ、窓をあけた。裏庭である。火葬場の煙突のやうな大きい煙突が立つてゐた。曇天である。省線のガードが見える。
 給仕人に背を向けて窓のそとを眺めたまま、
「コーヒーと、それから、――」言ひかけて、しばらくだまつてゐた。くるつと給仕人のはうへ向き直り、
「まあ、いい。外へ出て、たべる。」
「あ、君。」乙彦は、呼びとめて、「二晩、お世話になる。」十円紙幣を一枚とり出して、握らせた。
「は?」四十歳ちかいボーイは、すこし猫背で、気品があつた。
 乙彦は笑つて、「お世話になる。」
「どうも。」給仕人は、その面のやうな端正の顔に、ちらとあいそ笑ひを浮べて、お辞儀をした。
 そのまま、乙彦は外へ出た。ステツキを振つて日比谷のはうへ、ぶらぶら歩いた。たそがれである。うすら寒かつた。はき馴れぬフエルト草履で、歩きにくいやうに見えた。日比谷。すきやばし、尾張町。
 こんどはステツキをずるずる引きずつて、銀座を歩いた。何も見なかつた。ぼんやり水平線を見てゐるやうな眼差で、ぶらぶら歩いた。落葉が風にさらはれたやうに、よろめき、資生堂へはひつた。資生堂のなかには、もう灯がともつてゐて、ほの温かつた。熱いコーヒーを、ゆつくりのんだ。サンドヰツチを、二切たべて、よした。資生堂を出た。
 日が暮れた。
 こんどはステツキを肩にかついで、ぶらぶら歩いた。ふとバアへ立ち寄つた。
「いらつしやい。」
 隅のソフアに腰をおろした。深い溜息をついて、それから両手で顔を覆つたが、はつと気を取り直して顔をしやんと挙げ、
「ウヰスキイ。」と低く呟くやうに言つて、す…

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