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お菜のない弁当
おさいのないべんとう
著者
文字遣い新字新仮名
底本 「日本プロレタリア文学集・20 「戦旗」「ナップ」作家集7」 新日本出版社
1985(昭和60)年3月25日
入力者林幸雄
校正者土屋隆
公開 / 更新2001-12-04 / 2014-09-17
長さの目安約 4 ページ(500字/頁で計算)
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本文より

 誰でもその口実をはっきり知っていた。――それは五月十六日の朝からなのだ。その前の日は、犬養総理大臣が白昼公然と官邸で射殺された。でかでかと新聞に書かれたこの大事件によって、少しは景気の盛りかえす世の中が来るかも知れないと漠然と思い、そのことについて大いに談じ合う予算で工場に駈けつけたのだが、職工達は「おっとどっこい」――と許り門のところで堰き止められた。見るとひどく栄養のいい憲兵が長いサーベルをガチャガチャいわせて門衛所からとび出して来た。守衛が、嗄れ声で何か叫んだ。すると憲兵は怒鳴りつける号令声で「一列になれッ」とわめき、忽ち職工達を列べてしまった。
 身体検査がはじまった。帽子の裏をひっぺがしたりした揚句、とうとう弁当箱の蓋を取れ――と来た。お菜の何にもはいっていない弁当がいくつもあった。流石の憲兵もしまいには人間並の眼色をただよわして云ったものだ。
「この弁当じゃあ全く遣り切れんなア――」
 口鬚ひくひくさせていた守衛はぺこんと頭を低げた。陸軍直轄のこの工場では、武装した憲兵が絶対権を握っていた。そこで一人の労働者はそこら中に響きわたる大声で憲兵に云った。
「何あに、塩をぶっかけて味をつけてありますよ。十時間ぶっ通しの一日八十銭じゃあ、嬶も子供も碌に飯はねえ……」憲兵等は反り身になり胡散気に睨んだ。後にいた女工が彼の尻をつついた。で彼は一層生真面目に「満州出征の兵士を考えれば全く有難いことですよ。塩をなめたって僕等あ一生懸命働きますからねえ……」
 あとからあとから常傭、臨時が集まって来、予定にはいっていないこの時間潰しでタイムレコーダーの前は混雑した。だから彼等はせかせかしながら、それでも突飛もない嫌がらせを云ってのけたこの男の背中をポンと親し気にたたいて職場職場に駈けつけた。それが岩佐伍市だった。
 次の日から、朝は定刻の七時に間に合うためには、今までよりも三十分は早目に出かけねばならない。何故なら憲兵は不穏分子の侵入を防ぐために必ず身体検査をするからだ。入口で時間が潰れる。するとタイムレコーダーは情容赦もなく遅刻の印しに赤い数字でがちゃりと捺す――そしてそれが差詰め勘定日の金高にビンビンと響いて来る。
「……とんでもないことになったもんだ」と野田は背の高い岩佐に聞えるように呟いた。臨時工達は食事を取る設備をもっていない。彼等は今度の戦争がはじまる前頃から傭われ出した者許りだ。天気のよい日は工場裏の芝生に座って弁当をひらいた。工場のあっちこっちと追いまわされて全く疲れる。そして昼飯時にほっとする。のそりのそりと歩いていた岩佐は急に停って野田を待った。それから彼の云い分に調子を合せた。
「おまけに、八月になればしけるというではないか。停戦会議が成立して結局俺達臨時に御用済みにつき……と来るかも知れん」
「全く遣り切れんねえ。五月十六日から確かに一時…

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