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観念性と抒情性
かんねんせいとじょじょうせい
副題伊藤整氏『街と村』について
いとうせいし『まちとむら』について
著者
文字遣い新字新仮名
底本 「宮本百合子全集 第十一巻」 新日本出版社
1980(昭和55)年1月20日
初出「九州帝国大学新聞」1939(昭和14)年6月20日号
入力者柴田卓治
校正者米田進
公開 / 更新2003-03-03 / 2014-09-17
長さの目安約 5 ページ(500字/頁で計算)
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本文より

   あるがままの姿は決して心理でもなければ諷刺でもない

 伊藤整氏の近著『街と村』という小説集は、おなじ街や村と云っても、作者にとってはただの街や村の姿ではなく、それぞれに幽鬼の街、幽鬼の村である。これまでの自身の中途半端な人生のくらしかたが、その街においてもその村においても、いろいろの思い出とそこに登場して来る人物すべてを作者にとって幽鬼としてしまっている。その幽鬼たちが彼という存在との接触においてかつての現実の事情の中に完成されなかったいきさつを妄執として彷徨し、私という一人物はそれらのまぼろしの幽鬼に追いまくられて遂には鴎と化しつつ、自嘲に身をよじる。それを、作者は小説のなかでもくりかえし云われているとおりな自身の情緒のシステムにしたがって組立て、芸術の美感とは畢竟描かれた世界の中にあるという立てまえによって、一箇の幻想世界をつくりあげているのである。
 この作品を、心理主義の描写という批評の言葉も見かけるし、また、現代の知識人の苦しみを最高の形で表現している作品であるという紹介などもあるようだけれども、そういう謂わば既成の専門風なものの云いかたからはなれて、この作品をごくありのままの生活とその生活に生きてゆく今日の感情の自然な関係のうちにおいて眺めた場合、読者の大部分はどんな感想をもつであろう。
 それはきっと、ひとくちに云えない感情だろうと思われる。ひとくちには云えないが、何か云いたいものがのこされる、そういう心持のする小説ではないだろうか。そして、ざっくばらんに云えば、そこがこの作者の云わば狙いどころとしての成功であり、作品のひとくせあるところでもあるのではなかろうか。作者の中には、こういうシステムをもつひともあるものである。別な例だが、横光利一という作家のシステムも、わかるようでわからなく、だがあけすけに分らないと云わせないような同時代人の或る神経にひっかかりをつけてゆく技術で、妙にはたから勿体をつけて見られた作家の一人であった。

 伊藤整氏の場合、幽鬼の街と村とは、そばへよってよく見ると案外にわかりやすい幾つかの土台の上に組立てられている。一つは、「僕は中途半端に生活し、中途半端にしか考えて来ませんでした」「若し生活の一片毎に誠実であろうとしたならば、僕は命を百持っていても足りなかったでしょう」「意味は八方へ拡り、すべてのものにつながっていて考えればみな締めくくりがつかなくなる」「それらの責苦に私は耐えることが出来そうもない」ほどに感じられるそれを自己の感性の鋭さと意識されている観念である。この観念と並立していて、私という人物がこれまで中途半端にしか生活もせず考えもせずに暮して来たという自嘲自責で身をよじっているとき、内心その姿に手をかけてなぐさめてとなり、合理づける囁きとして存在している、もう一つの観念がある。
 それは、あらゆる時期…

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