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現実と文学
げんじつとぶんがく
副題思意的な生活感情
しいてきなせいかつかんじょう
著者
文字遣い新字新仮名
底本 「宮本百合子全集 第十一巻」 新日本出版社
1980(昭和55)年1月20日
初出「帝国大学新聞」1939(昭和14)年11月20日号
入力者柴田卓治
校正者米田進
公開 / 更新2003-03-03 / 2014-09-17
長さの目安約 6 ページ(500字/頁で計算)
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本文より

 十一月号の『中央公論』に「杉垣」という短篇を書いた。その評の一つとして武田麟太郎氏の月評が『読売新聞』に出ているのを読んだ。
「勤め人夫婦が激動する時代の波濤の中でいかに理性的に生くべきかを追究する次第を叙し」「各人物の性格なぞも現代的特徴のうちに生かされてはいるし、それが矛盾に於て把握されているが、そうした矛盾した複雑性も、作者の余りにも構えた分析解明の跡が見えすぎ、如実に操られている各性格が息のかよわぬ人形であることがいよいよ哀しく読者に印象される。読後、私は妙なことを感じた。というのは、これが翻訳小説であったならば随分佳作として称讚したのではないかと云うこと。おかしな云い方だが、日本の小説性格形成の過程と、西洋的のとは、根本的に相違があるのではないか。」
 大体以上のように武田氏は云われている。
 一つの小説が発表されてからめぐり会う運命は、云わば港を出た船のようなものなのだから、それがそれぞれの風を受け、波におくられることは当然であり、作者としての私は直接作品との関係でその評について何か云おうとは思わない。けれども、武田氏の評の終りの部分は何かそこに現代日本の文学、武田氏から考えられている小説の問題が現れていて、今日の生活感情と文学のリアリティーの問題として感興を動かされるものがあった。
 文学として見た場合、日本の小説であろうと西洋の小説であろうとその作品の中で描かれている人間が単に人形であるなら、その作品を佳作と云ったり出来ないことは明らかであると思う。又、日本の現実の中で日本の人間が動いている小説を、外国小説ならばという仮定で云えないことも自明であるから、武田氏が云いたかったところは、自身書かれた文章のそういう矛盾のうちにふくまれている、日本の小説の性格形成の過程は西洋の小説とちがうということにある、作家の現実への態度について一個の芸術家としての感じかたであったろう。

 この間うち、散文精神というようなことが考え直され、論議された。この散文精神という表現は武田さんが三四年前云い出されたことで、云い出された心持には、現実に肉迫して行ってそこにあるものをそれなり描き出すことで、現代のあるがままの姿そのものに語らしめようという気持が基調となっていたと思う。現実の複雑な力のきつさに芸術精神が圧倒される徴候がまだ目新しいものとして感じられていた当時、西鶴の名とともに云われたこの散文精神ということは、のしかかって来る現実に我からまびれて行こう、そしてそこから何かを再現しようという意味で、文学上、一つの意気の示されたものであった。
 しかしながら、散文精神の発足にやはり時代のかげが落ちていて、芸術が現実へ働きかけてゆく面からそれが云われず、どちらかと云うと、現実の反映としての小説をより見たことは、散文精神が、市井風俗小説を多産するに至ったことで裏づけられ…

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