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文壇はどうなる
ぶんだんはどうなる
作品ID2830
著者宮本 百合子
文字遣い新字新仮名
底本 「宮本百合子全集 第十巻」 新日本出版社
1980(昭和55)年12月20日
初出「時事新報」1931(昭和6)年5月17、18日号
入力者柴田卓治
校正者米田進
公開 / 更新2003-01-30 / 2014-09-17
長さの目安約 5 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

          一

 大正五年頃、つまり私が最初に小説を発表した時代――ちょうど、久米正雄君や菊池君や芥川さんが『新思潮』からだんだん乗り出して行った時代で、文壇というものがまだハッキリ形を持っていた。それで自分のような生活力は旺盛だが並な気持で生きている人間には、その時代の文壇というものが、恐かった。大へん特別で、口を一つきくのでも智慧を廻して云うようだし、盛に神経の磨きっこをするし、外からゴシップを読んだだけで、一寸閉口なくらいだった。時代やまた仕事をしている時間から云えば、当然自分なんかはいわゆる文壇的な存在なのだけれども実質的には至って文壇の外の人間だった。
 だんだん社会の状勢が変って来て、このごろでは文壇というものが、商業化したことがハッキリ判る。昔の『新思潮』が作家を送り出した時代の文壇は――つまりインテリ貴族で文壇をつくる根本の気持が芸術至上主義的で、世間の人間――俗人とは俺達は違うぞという気分の上に立っていたと思う。今ではインテリの商品価値がブルジョア経済の上で下落して来た。文学で云えば、ブルジョアの社会が行き詰まったと一緒に、文化もほんとうの創造力を失って来たから、インテリ・ブルジョア文学が、一般的に云って退屈だ。面白くない。だからジャーナリズムは、原稿料が高くなくて実際の大衆の生活と密接な、そして生き生きした、ほんとうの世界的感情を盛り込んだプロレタリア文学を喜ぶ。大衆がそれを喜ぶからジャーナリズムも喜ぶのだ。いわゆる今の文壇は、そういう盛り上って来る新しい力に対して中間的または反動的ブルジョア・インテリ作家が造っている一種の商業的ブロックだ。
 昔、西園寺公が夏目漱石を筆頭に、文壇的名士を招待したことがあった。その時、漱石は、句は忘れたが、折角ほととぎすが鳴いているが、惜や自分は厠の中で出るに出られぬという意味の一首を送って、欠席したという話がある。その時、漱石は仕事がひどく忙しかったらしいと思われるが、ふだんから漱石は政治家嫌いだった。代議士になるのなんかは、馬鹿だと云った。政治に対して絶対不干渉の態度を持つことは、ずっとブルジョア文壇の特徴だった。しかし現在日本のブルジョア文壇が、世界的新興勢力を文化的に代表するプロレタリア文学に対立している以上、文壇的ブロックはただいわゆるどこに在るか判らない文壇という壇上に止ってはいない。ハッキリ反動勢力の御用をつとめていることになる。無意識的にでもその事実は否定出来ない。どこの国でも文壇の状勢はきっちりその時の、その国の政治経済状勢と結びついて変化している。
 例えばソヴェトの文壇についてもこのことは明瞭に云える。一九一七年から二〇年までの、国内戦の後、ソヴェトはレーニンのいわゆる「勝利のための退却」をして国内産業へ個人資本の流用を許した。有名な新経済政策時代が現われた。そしてこの経済…

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