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ブルジョア作家のファッショ化に就て
ブルジョアさっかのファッショかについて
作品ID2835
著者宮本 百合子
文字遣い新字新仮名
底本 「宮本百合子全集 第十巻」 新日本出版社
1980(昭和55)年12月20日
初出「時事新報」1932(昭和7)年1月28~30日号
入力者柴田卓治
校正者米田進
公開 / 更新2003-02-01 / 2014-09-17
長さの目安約 8 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

          一

 正月の『中央公論』は、唯一篇も正しい立場に立つプロレタリア作家の小説を載せなかった。『中央公論』以外のブルジョア・ジャーナリズムも多くプロレタリア作家をボイコットした。然し、それだけで現実の状勢を判断することは出来ない。何故なら同じ正月号の『プロレタリア文学』(日本プロレタリア作家同盟機関誌)が店頭に出ると間もなく六千部か七千部を売り切った。
 これは『中央公論』が、たった一つのプロレタリア作家の小説もない新年号を敢て出したという事実に対して、階級的文化というものはどういうものか、対立はどんな比重にあるかということをハッキリ示した意味深い事実だ。
 それから文壇ファッシズムの擡頭ということをいう前に何故ブルジョア・ジャーナリズムというものに就いて、その御用振りを書いたかと云えば、中村武羅夫でもそこまでは理解した通り、もう何年か以前、所謂文壇は壇ごとジャーナリズムの中へ引越してしまっている。もっとハッキリ云うと元来、文壇などと云う特別な文化の独立国は何時の時代にだってありはしなかった。夏目漱石は日本の優れた一人の作家であるが、ブルジョア・インテリゲンチャの一人であった。――と云う意味に於てどんな作家だって自分の臍の緒は必ずどの階級かに繋がっている。従って自分の臍の緒を繋ぐ階級が文化の宣伝具としてジャーナリズムを統制してゆけば、その統制に応じて執筆者、大小作家がその統制に服してくるのは当り前だ。ブルジョアジーがファッショ化すれば、ブルジョア作家はファッショ化する。この関係は切っても切れるものではない。然も、ブルジョア作家のファッショ化は決して簡単な形では現れていない。彼等の主人、ブルジョアジーの戦略戦術が千変万化であるように、ブルジョア作家の反動化は千変万化だ。
 ブルジョア大衆文学の才人直木三十五は、ついこの間「ファッシズム宣言」と云う啖呵文を読売紙上に発表して、三上於菟吉と共に民間ファッショの親玉として名乗りを揚げた。これは却々興味ある一つの出来事だ。直木三十五は持前のきかん気から中間層のインテリゲンチャが、ファッショ化と共に人道主義的驚愕を示し然も自身では右へも左へも、ハッキリした態度を示し得ないことに憤慨して、「俺は此の世に恐ろしいものはない。ファッシストにだってなって見せるぞ」と大見得を切ったのだ。ところで直木も俗学的な人生観を基礎とはしていても、才人だけあってファッシズムの暫定的な性質はボンヤリ理解し、抜目なく「向う一年間」と自身のファッショ化期限を決めている。この直木の態度と犬養健の態度との間には何処やら共通の一応の悧口さと基礎的な愚さとがある。
 犬養健も『白樺』へ小説を書いていた時は、人道主義的作家であった。ところが大人になるにつれて人道主義のヤワイ(柔い)ことが判って来た。中途半端な人道主義はイザと云う時、役に立た…

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