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禁酒の心
きんしゅのこころ
作品ID284
著者太宰 治
文字遣い新字新仮名
底本 「太宰治全集5」 ちくま文庫、筑摩書房
1989(昭和64)年1月31日
初出「現代文学」1943(昭和18)年1月
入力者柴田卓治
校正者しず
公開 / 更新2000-05-02 / 2014-09-17
長さの目安約 8 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 私は禁酒をしようと思っている。このごろの酒は、ひどく人間を卑屈にするようである。昔は、これに依って所謂浩然之気を養ったものだそうであるが、今は、ただ精神をあさはかにするばかりである。近来私は酒を憎むこと極度である。いやしくも、なすあるところの人物は、今日此際、断じて酒杯を粉砕すべきである。
 日頃酒を好む者、いかにその精神、吝嗇卑小になりつつあるか、一升の配給酒の瓶に十五等分の目盛を附し、毎日、きっちり一目盛ずつ飲み、たまに度を過して二目盛飲んだ時には、すなわち一目盛分の水を埋合せ、瓶を横ざまに抱えて震動を与え、酒と水、両者の化合醗酵を企てるなど、まことに失笑を禁じ得ない。また配給の三合の焼酎に、薬缶一ぱいの番茶を加え、その褐色の液を小さいグラスに注いで飲んで、このウイスキイには茶柱が立っている、愉快だ、などと虚栄の負け惜しみを言って、豪放に笑ってみせるが、傍の女房はニコリともしないので、いっそうみじめな風景になる。また昔は、晩酌の最中にひょっこり遠来の友など見えると、やあ、これはいいところへ来て下さった、ちょうど相手が欲しくてならなかったところだ、何も無いが、まあどうです、一ぱい、というような事になって、とみに活気を呈したものであったが、今は、はなはだ陰気である。
「おい、それでは、そろそろ、あの一目盛をはじめるからな、玄関をしめて、錠をおろして、それから雨戸もしめてしまいなさい。人に見られて、羨やましがられても具合いが悪いからな。」なにも一目盛の晩酌を、うらやましがる人も無いのに、そこは精神、吝嗇卑小になっているものだから、それこそ風声鶴唳にも心を驚かし、外の足音にもいちいち肝を冷やして、何かしら自分がひどい大罪でも犯しているような気持になり、世間の誰もかれもみんな自分を恨みに恨んでいるような言うべからざる恐怖と不安と絶望と忿懣と怨嗟と祈りと、実に複雑な心境で部屋の電気を暗くして背中を丸め、チビリチビリと酒をなめるようにして飲んでいる。
「ごめん下さい。」と玄関で声がする。
「来たな!」屹っと身構えて、この酒飲まれてたまるものか。それ、この瓶は戸棚に隠せ、まだ二目盛残ってあるんだ、あすとあさってのぶんだ、この銚子にもまだ三猪口ぶんくらい残っているが、これは寝酒にするんだから、銚子はこのまま、このまま、さわってはいけない、風呂敷でもかぶせて置け、さて、手抜かりは無いか、と部屋中をぎょろりと見まわして、それから急に猫撫声で、
「どなた?」
 ああ、書きながらも嘔吐を催す。人間も、こうなっては、既にだめである。浩然之気もへったくれもあったものでない。「月の夜、雪の朝、花のもとにても、心のどかに物語して盃出したる、よろずの興を添うるものなり。」などと言っている昔の人の典雅な心境をも少しは学んで、反省するように努めなければならぬ。それほどまでに酒を飲みたいものな…

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