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「夜明け前」についての私信
「よあけまえ」についてのししん
副題池田寿夫宛私信の一部
いけだとしおあてししんのいちぶ
著者
文字遣い新字新仮名
底本 「宮本百合子全集 第十巻」 新日本出版社
1980(昭和55)年12月20日
初出「批評」1936(昭和11)年9月号
入力者柴田卓治
校正者米田進
公開 / 更新2003-02-25 / 2014-09-17
長さの目安約 6 ページ(500字/頁で計算)
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本文より

 (前略)
 藤村がフランスにいた間に、十九世紀というものを世界的な感情で感得し、日本の十九世紀というものを描きたく思ったということ。そして、十九世紀を維新後と徳川時代との区切りで見ず、昔をただ反動保守の力としてばかり見ず、その中に明治を生んだもの、その中に新しい活力をひそませていたものを描きたいということが、なかで読んだ藤村文学読本のどこかにあったパリでの感想中に書かれていました。このことは大変私には面白く思われた。
 世界の十九世紀という時のうちに日本のその時代をおいて観察しようとする大きい規模・感覚、並に新しいジェネレーションに対して古いものが本質的にただ古いだけではないのだぞというところを押し出さずにはいられぬ藤村自身としての心持を感じ、その点を私は面白く感じました。
「夜明け前」は或る面から言えば一種の歴史叙事詩であるが、主観的に藤村は歴史の或る時代の或る役割をヘンスーの土地のかくの如きものも負っているということを(即ちマルクシストでない自分だって時代の動きに負わされているものがあるという心持を)たて糸としていることはたしかですね。だから貴方も書いていられるように、客観的に描かれているようで、全篇実に主観的である。このことは「夜明け前」の文章、描写の方法――貴方が「読み辛い苦汁のような」と言っていられる文章にもあらわれていると思います。
 そしてこの文章の特徴は、作家藤村の本質的なものの表現として、「夜明け前」・藤村が批評される場合におとしてはならぬ点と思う。リアリスティックであるようだが(場面の登場人物、その動作、言葉、たとえば土地名物の餅のたべかたまでこまごまと書いてあるが)読者はそれがすべて藤村流の気分・心持で圧えられ、思い入れを伴って描かれ、人物自体、動作自体が地の文の上に浮動して活躍していないことを感じる。ダイナミックでない。自由でない。精緻であるが、縫いつぶしの刺繍を見るようなものを感じる。この窮屈な文章が藤村の気組みの反映、或は堂々さとして現代の人々に尊敬されることに、現代文学の貧弱さ、同時に健康な若い文学的反抗心のよわさ、確信あり自信ある発展的・前進的活躍がないフラフラ雰囲気に飽きた一般人をその窮屈さも或る快感として把えるところとなっている。更に、「夜明け前」を読まぬ者まで昨今はそれを一応尊敬するのが常識となって来ているということ、現代の人々が或る大きい事業(文学的にでも)をひどく求めていながらそれを自身やる根気もなく、又すっかりやられて目の前につきつけられなければそういう努力の過程をも野暮なことのように感じる神経衰弱症。そういう心理的な点は、私がなかで文章というものの諸問題について考え、藤村の文章に非常に特徴を発見し、それを浅くではあるが考えて見たときからの興味の中心です。
 藤村が「あらゆる存在と必然とを肯定するに到った」その謎…

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