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古典からの新しい泉
こてんからのあたらしいいずみ
著者
文字遣い新字新仮名
底本 「宮本百合子全集 第十二巻」 新日本出版社
1980(昭和55)年4月20日
初出「女子文苑」1940(昭和15)年11月号
入力者柴田卓治
校正者松永正敏
公開 / 更新2003-04-08 / 2014-09-17
長さの目安約 4 ページ(500字/頁で計算)
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本文より

 世界が到るところで大きい動きと変化とをみせていて、この状態はおそらく五年や六年でおさまるものとは考えられない。
 第一次の欧州大戦ののち世界の文学は非常に変化して、日本も文学の歴史に一つの転換を示した。
 今日から明日へかけて私たちの吸う空気のなかに感じられている現代の波立ちは、その間からどんな文学を生み出して行くのだろう。そのことは、つまり私たち自身がこれから先数年の激しい生活のうごきの間に、どんな風に変ったり成長したりするだろうか、ということになるのであると思う。
 文学そのものが動揺しているというよりも文学に従事している人々が、文学をどう見てゆくかというめいめいの態度の上での動揺がこの頃大変目立っていて、文学を愛すものの胸に何となしの不安をよびさましていると思う。
 いろいろな人がいろいろなことを云って、新体制と云って何か急に特別なものが文学の姿で出現しそうな感じを与えて、これまで文学というものは大体こういうものと思ってそれを愛していた人は、はたと行手にちがった形でも描き出さなければならないような一種途方にくれた気持にもさせられているのではないだろうか。
 日本の歴史を辿ってみても、よその国の歴史を眺めても、いろいろの時代に文学は様々の解釈を下されて来ているが、それが人生の真のよろこびと悲しみとの姿を映したいと希う人間の精神のあらわれであるということについては、どんな解釈も文学としてのその本質を否定することは出来なかった。
 世の中には随分巧な宣伝文や広告があってひととおり人々の目をひきつけるが、それが文学でないということは、誰でも心の底では知っていることである。本当の立派な文学というものは、その作品のなかに描き出されている世界に私たちが自分の心をひきつけられて、そのなかに自分のものであって自分には表現することが出来ずにいた数々の思いを見出してゆき、それによって新しく人生を考えさせられ、感動させられてゆくものだと思う。
 日本は未曾有の生活を経験をしていて、この経験はこの先々益々深められてゆくものだから、文学にしろ、そういう私たちの生きてゆく歴史のなかで、変らずにいることは全くあり得ない。日本にも新しい文学は生れるだろう。私たちが、忠実に現代の日本の辛苦と努力とを経て生きてゆけば、私たちの文学はいつしか変って来ざるを得ないのである。
 しかし、文学についてそのような変化を云う場合、どんなに変化の大さが云われてもやはり文学の本質から離れて考えることは不可能である。どんなに変化しても文学は文学でなければならないし、さもなければもうそれは文学でないものに変ってしまったものとして、文学の外で語られなければならないものとなる。
 刻々に推移する今日の私たちの生活が、私たちの心に与える種々様々の動きを、落付いた人間として女としての思いのなかに感じとって、ささやか…

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