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日本の河童
にほんのかっぱ
副題火野葦平のことなど
ひのあしへいのことなど
著者
文字遣い新字新仮名
底本 「宮本百合子全集 第十二巻」 新日本出版社
1980(昭和55)年4月20日
初出「日本学芸新聞」1941(昭和16)年1月10日号
入力者柴田卓治
校正者松永正敏
公開 / 更新2003-04-14 / 2014-09-17
長さの目安約 4 ページ(500字/頁で計算)
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本文より

 生活の感情は実にまざまざと複雑になって来ている。作家がそういう今日の感情を生きているのだし、文学を読む人々の心にもその波動は在る。
 作家とあれば、こういう時代だからこそ益々いい作品を書いて行くばかりだと、一層覚悟の臍をかためるわけだと思うが、いい作品と自分に向って考えるとき、それはどのような作品として浮んで来るのだろう。
 この答えは、作家一人一人によって様々であろうと思われる。その様々であるという現実が却って逆に反射して、ごく大掴みに国民文学というような表現が現われたり、その国民文学はロマンティックなものであるだろうというようなつきつめてみれば主観的な表現があったりするのでもあると思う。
 私たちの足跡は、ほかならぬ私たちの足の下からしか現れないという意味で、一人一人の作家の必然の道がよきにつけあしきにつけ、その作家の文学の現実を決定してゆくし、日本の今日の文学の性格の一要因としてかかわりあってゆくわけである。
 一人一人の作家がそれぞれにちがうという必然は、だが他面に何か通有な一つ二つの文学としての希望、願望、更につよくは意欲という風なものを持ってはいないだろうか。
 どんな時代にも、作家は現実にたえるものとして自分の作品を生もうとして来たと思う。歴史の現実は、その荒っぽい摩擦を経て、現実にたえた作品を、古典として私たちに伝えているのである。
 今日の歴史の波濤の間で私たちの自身の文学について新しい愛と勇気とを覚えるとすれば、それはきのうも思っていたように漠然といい作品を書こうと思うばかりでなくて、一層現実にひろくたえる作品を創ろうと願う何かの新鮮な心の目ざめが経験されるからであろう。
 日本の文学の命は、真面目な作家たちの努力によって、益々現実に広くたえるものとして生まれて行かなければならないのだろうと思う。
 これは、現代の社会生活と文学とにあって一つの痛切で美しい願いだが、そこにある困難は非常に大きい。
 その作品の世界の中に、人々の生々しい現実を広く複雑に負うているという意味で、しかも個々の現象が模写されているというのではなくて、それらの現象を通じて生きる人の姿が動いているという意味で、今日現実に堪える作品がつくられてゆくことは容易な業でない。だからこそ、野暮にしちくどく希望されていいことなのだろうと思う。
 一人の作家の動きとして火野葦平氏をみる。するとそこには「糞尿譚」の作者があり、つづいて麦と土と花と兵隊の作者があり、やがて河童の「魚眼記」が現れている。この過程に何が語られているだろう。「土と兵隊」の作者に「魚眼記」の現れたのは誰そのひとだけにかかわった現実であって、私たちには他人のことだと云えるのだろうか。
 日本の近代の文学に河童が登場することについては考えるべき何事かがある。周知のとおり、芥川龍之介は死の数ヵ月前、昭和二年の二月、…

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