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ヴォルフの世界
ヴォルフのせかい
著者
文字遣い新字新仮名
底本 「宮本百合子全集 第十二巻」 新日本出版社
1980(昭和55)年4月20日
初出「文芸」1941(昭和16)年5月号
入力者柴田卓治
校正者松永正敏
公開 / 更新2003-04-20 / 2014-09-17
長さの目安約 4 ページ(500字/頁で計算)
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本文より

 この間さがさなければならない本があって銀座の紀伊国屋へよったらば、欲しいものはなかったかわり、思いがけずパウル・ヴォルフの傑作写真集が飾窓に出ているのに気がついた。もうかえろうとして飾窓をふりかえったら、そこにある。見たくなって、もう一遍混雑をきわめた店内へ戻って、奥の方で開けて眺めているうち、大決心をして到頭買って来た。
 ヴォルフの写真を集めた本は、何年か前に「海辺にて」という題だったか、ヴォルフ夫人と幼い女の児とを海辺の様々な情景で撮したのを見たことがあった。その時から写真にもこういう味いがあり得るのだという印象をつよくのこされた。
 日頃カメラを愛する人々にとっては、今更ヴォルフも知れすぎた物語であろうけれど、番町書房というところから発行されているこの一冊の作品集は、いろいろな感銘で私をうごかした。
 ヴォルフのカメラはまるで美感と温さとをもった生きもののようで、独特の生命に流動しながら、対象の極めて自然な、しかも性格的なモメントをとらえている。最高の機械と技術とが駆使されていることは明らかなのだが、ヴォルフの製作の一つ一つの態度は、それらの道具を駆使する感興というような末梢から遙にぬきんでている。私を一番感動させたのは、制作者としてヴォルフがもっているひろやかで瑞々しく複雑な情緒と、対象をそのものとして活きた性格の姿でとらえてゆく主観の謙抑とでもいう美しさである。頁から頁へと一つの印画から一つの印画へとそこに描こうとされた生活の各断面が十分の量感をもって展開されていて、そこからたちのぼって来る生活の息づきに、心持よく顔をふかれるような感じをうけた。
 夏の或る日、畳まった町の屋根屋根を越してずーっと下の方に並木路が見える。その並木路は海岸の散歩道で、梢のこまやかな樹木の彼方に低く遠く静かな海の面がのびている。ぽっくりと一人白い軽い外套を羽織った女がその海岸通の並木路の日蔭の間に立って片手を高くあげながらむこうを通ってゆく汽船に挨拶を送っている。
 カメラは高い高い左手の上からその光景を俯瞰している。近い屋根屋根の波の面白さ、それから段々と低くなって並木通へ視線が導かれ、そこに在る点景の白い婦人の姿を中心として一層ひろい海面へのびてゆくリズムは実に変化と諧調に富んでいて、眺めていると複雑にとらえられている角度や線の交錯から、その海辺に都会がつくられて来た歴史の奥行だの、その屋根屋根の下で営まれているその日その時刻の生活の微かな音響だのが、夏の日光の中に匂いとなって感じとられて来るのである。
 絵画ではきっと処理しきれないだろうと思えるどっさりの生活の感情が、そこには流動する立体感であつかわれている。
 もう一つ非常に印象をうけたのは、その一冊の終りの方に工場や作業台に向って働いている人々を撮った何枚かの中の一枚で、精密な機械の調べ手入れのようなこと…

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