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日本文化とは何ぞや(其一)
にほんぶんかとはなんぞや(そのいち)
著者
文字遣い旧字旧仮名
底本 「内藤湖南全集 第九卷」 筑摩書房
1969(昭和44)年4月10日
初出「大阪朝日新聞」大阪朝日新聞社、1922(大正11)年1月5日~7日
入力者はまなかひとし
校正者菅野朋子
公開 / 更新2001-10-24 / 2016-04-20
長さの目安約 13 ページ(500字/頁で計算)
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本文より

 文化と云ふ語は、近頃流行し、何ものにでも此の二字が附せられると景氣好く見えるかのやうであるが、しかし、一般世人が文化其の物をどれだけ理解して居るか。文化は國民全體の智識、道徳、趣味等を基礎として築き上げられてゐるのであるが、其の基礎たる智識、道徳、趣味が現代の日本に於て、どれだけの程度に於て在るか。政治、經濟等、人生の需要から生ずる者とせらるゝ事相は、すべて民衆的なるを要求せられ、民衆的な方法に適合せないものは時代錯誤として斥けらるゝが、文化の基礎たる智識、道徳、趣味等は、果して民衆的なるを要求すべき者であるか。民衆的ならざる者は、果して皆時代錯誤とすべき者であるか。然して現代日本の智識、道徳、趣味が實際に現はれたる事實を考察する時は頗る心細さを感ずることがある。是れは特に余等が專門とする史學に關する方面に於て其の然ることを認める。最近富士山の何處かで、神代の記録を發見し、神武以前幾十代かの事蹟が記してあるとて宣傳する者があり、又それを信ずる者もあつて、歴史を假裝したものと、眞の歴史との區別を判斷し得ない多數の人々があるやうである。東京に於ても何某の行者といふやうなものに、所謂上流社會に餘程の勢力を有するものもあり、古事記等を非學術的に解釋して官吏、軍人其他の信仰を集めたものもある。此等が現代日本の民衆の歴史なり、道徳なりに關する智識なりとすれば、明治の初年以來、五十年間、日本文化の基礎たる民衆の智識が進歩せるや否やを疑はざるを得ない。明治初年に大分縣の某といふ山師が神代文字で記した『上記』といふものを發見して、其れを飜譯したのだと稱して、時の有名なる新聞記者岸田吟香氏を欺き出版せしめたことがある。即ち神代を幾十代かに引延して、一々編年體の記事を捏造したものである。三浦博士の言はるゝ所では、今度の神代記録とかの上記とは殆ど全く同一のものであるといふことである。自國の歴史にさへ、其れだけ盲目なことが、五十年前と今日と殆ど同樣である證跡があるとすれば、我々が日本の進歩に疑問を抱くといふのも、必ずしも矯激の言と云ひ得ないであらう。故に自分が今、日本文化に就て説くところは猶多數の人々の理解し難く、且つ時としては大なる反感をもつところのものであるかも知れない。たゞ然し、近來一般の思想傾向として善いことは、學者の自由討究に對して、以前よりはいくらか寛大になつた點である。其れで日本の多數の人々の智識には信用を置かぬ自分も、自由討究の一端として、鄙見を披瀝して見ようと思ふ。
 何れの國にも、國民には所謂お國自慢があつて、其お國自慢の中にも、自國の文化が自發的であると云ふことが、餘程重きを爲してゐるのである。しかし、是は或る少數の古い國、埃及とか、支那とか、印度とかいふ者を除いては、理由なき謬想であつて、例へば、兒童が生れ落ちてから、漸次智慧が附いて來る年頃は、年長者から導…

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