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生活においての統一
せいかつにおいてのとういつ
著者
文字遣い新字新仮名
底本 「宮本百合子全集 第十三巻」 新日本出版社
1979(昭和54)年11月20日
初出「文学時標」創刊号、1946(昭和21)年1月1日
入力者柴田卓治
校正者米田進
公開 / 更新2003-05-02 / 2014-09-17
長さの目安約 2 ページ(500字/頁で計算)
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本文より




 日本の文学と文学者とは、最近数年の間に極めて容赦のない過程で、政治というものについて、目をさまされて来た。
 大体日本文学は、その歴史の発端から、風流を文学の芸術性の骨子として、社会生活から或る程度離脱した位置に自身をおいた知性と感性との表現としての伝統をもって来た。日本文学は主情的な文学の特質をもっていたといわれている。その原因には少くとも芸術に向う素質をもった人間的心情にとって、数百年間の封建日本の重い絆と、薄弱であるのに形は動かしがたい封建知性人の経済的基礎とが、常に人生をあわれと見る心理に追いこんで来たことがある。理非に訴えて政治的にそれを打破する可能は、その時々の支配力が決して一般人に与えていなかったものであった。
 一九一八年以後の日本に民主的文学が擡頭して、文学の社会性について発展的な一歩を示したとき、例えば作家中村武羅夫は、有名であった「花園を荒す者は誰ぞ」という反駁の論文で、熱烈に文学の純芸術性という観念を保守した。ところが、その純芸術性という観念は、本質においては、社会的表現としての芸術が政治的にもつ意味という点に全く無知であった。その証明として、今度の第二次世界大戦に参加した日本の非道な軍事強行が進むにつれ、他ならぬこの純芸術性の擁護者であった中村武羅夫が先頭の一人となって、急速に、徹底的に日本の旧文学を、軍事暴力の政治抑圧に屈伏させた。そして文学の真に芸術としての自主的な意義を潰滅させた。
 このおどろくべき経験は、これからの日本の文学と文学者にとって、無限の教訓となるに違いない。作家が、自分を一市民と自覚して、自身の社会生活構築の過程により真摯に参加するにつれて、文学と政治とのいきさつは、観念の論議からぬけ出して、正常な生活的血液を循環させるようになるであろう。そこに民主的文学の一つの新生面があり得るのである。
〔一九四六年一月〕



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