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俳優生活について
はいゆうせいかつについて
作品ID2967
著者宮本 百合子
文字遣い新字新仮名
底本 「宮本百合子全集 第十三巻」 新日本出版社
1979(昭和54)年11月20日
初出「テアトロ」1946(昭和21)年11月号
入力者柴田卓治
校正者米田進
公開 / 更新2003-05-06 / 2014-09-17
長さの目安約 7 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 芝居について大変よく知っている作家があり、そういう人々は舞台をよくみているし、俳優の一人一人についてもゆきとどいて理解している。わたしは、それとは反対の作家の一人であると云えよう。芝居のことについて知っていない。余り舞台もみていないから、したがって一人一人の俳優について、こまかくその芸術の変遷を辿るということも出来ない。
 しかし、この間、何年ぶりかで「プラーグの栗並木の下で」を観て、俳優生活というものについて、これまでになく心を動かされるものがあった。
 名優が、老年になってから自分の思い出を本にかくことがよくある。スタニスラフスキーの思い出は厚い本になって日本でも出版されていた。チェホフの手紙をよむと、妻君であるオリガ・クニッペルに向って、実に親切に、おだやかに、俳優の芸術家としての見識について、芸術境地の高めかたについて忠告を与えている。どれをよんでも、名優というものが、すべての芸術を貫く忍耐づよい研究心、真実を愛する精神、克己、根気を基礎に自分を発展させることがわかる。
「プラーグの栗並木の下で」を見ているうちに私の心をうったのは、そんな名優とか大俳優とか一生云われることのない俳優たちが、どんなに熱心に科白を云い、扮装をし、舞台に一つの創造の世界を実現させて行こうと努力しているか、ということの感動であった。更に、その感動に加えて、それらの俳優たちが、かつらをかぶりAという人物になりきろうとし、衣裳と科白とでBという人物になりきろうとしているのにかかわらず、その役によって却って何とまざまざと自分という一個の存在内容をむき出しているかということであった。

 文学の世界では、戦争中にうけた損傷のひどさが大規模にあらわれていて、誰の目にも被いがたく見えている。民主日本となろうとする暁方の鳥の声のような作品はまだ出ない。そんなにすべての若い才能の芽がつみとられ、剛健な中年の成熟が歪められ、老年の芸術家の叡智を低下させてしまったのである。
 劇壇の人々は、戦争の間、どんな暮しをして来たのだろうか。「プラーグの栗並木の下で」を観ていて痛切に心に浮んだのはこの問いであった。戦争御用の芝居をもってあっちこっち打ってまわらなければならなかったろう。三浦環まで満州へ慰問に行かなければならない日本であったのだから。どの程度経済事情がわるかったろう? 文学の人のように、いい作家でも貧乏し、いじめられつづけて来たのだろうか。それとも、戦争によって益々卑屈に商業性を守ろうとした大資本に買われて、名優たちは金には困らず、芝居としては下らない芝居をして、とりまきからあがめられて来たのだろうか。芸術上に蒙る損傷の形は多様である。文学がジャーナリズム、出版企業に従属する面が多いから、戦争進行プラス企業の追随で益々低落した。劇壇の人々は自身の芸術的生涯と興行資本というものについて、どう…

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