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ディフォーメイションへの疑問
ディフォーメイションへのぎもん
著者
文字遣い新字新仮名
底本 「宮本百合子全集 第十三巻」 新日本出版社
1979(昭和54)年11月20日
初出「美術運動」第2号、1947(昭和22)年6月
入力者柴田卓治
校正者米田進
公開 / 更新2003-05-10 / 2014-09-17
長さの目安約 5 ページ(500字/頁で計算)
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本文より

 この一年あまりの間に日本の文化がどんなに新しく、そしてゆたかになったかということについては、いろいろの複雑な問題がある。文学は字であらわされる芸術であるし、字というものは生活の言葉であるから、私たちの生活の実感というものと照しあわせてそれを理解し判断する手がかりがある。つまり素人でも文学は批評できるし、その批評は批評として成りたつ。文学が特殊な人々の愛玩物ではなくて、私たちすべての生活人の社会生活のいきさつと、心持とそこからの発展を意味するものであればある程、社会人としての文学上の素人の意見は文学に大きい評価の価値を占めてくるものである。
 おなじ文化でも音楽のことになると、音楽の特別な性質――感覚的な音というもので表現される芸術として訴える力は大きいが文学のような大衆からの素人批評が音楽そのものを発展させ新しくさせる力に乏しい。文学よりも音楽は技術が特殊で、それは素人と玄人との差別をあんまりきっちり分けるから。
 絵画の問題も仲々むずかしい。日本画は、そのもっている制約から今日の人民の生活の複雑な感情をうつし出すに困難であるし、洋画は文学のように誰でも新聞小説を読むというふうな生活へのはいりこみ方をしていない。本場のフランスでさえ、セザンヌの住んでいた村でセザンヌは理解されていなかったし、ゴッホの忠実な弟がいなかったら、そして理解のある弟の妻がいなかったら、私たちはゴッホを紙屑籠の中へ失ったであろう。この間新聞である女流の日本画家と洋画の女流画家とが短い意見を発表しているのをみた。日本画の女流画家は、洋画一般が日本の生活とどんな必然性をもっているか、日本人であるということをどこまで分っているのだろうという疑問を出していた。これは面白い問題の提出であると思う。
 日本人であるということ、或はフランス美術をものにしているかいないかということ、それだけが問題ではないと思う。つまるところ私たちの生活の実感と今日洋画といわれている絵画の世界との間に、心からの必然がないことが問題だと思う。文学だとこんな小説がなんだろうと率直に疑問がいい表わせる。けれども画になると、例えば梅原龍三郎の画の世界の必然が分らないということは、いわゆる文化人には出来かねる。自分の分らない技術によって組立てられている世界、そしてその芸術は莫大な金銭によってあがなわれ、大家といわれているとき、文化感覚の中にある卑屈な事大主義が社会人として正直な、しかしそれは素人の批評である批評をひかえめにさせる。そのために大局からみれば梅原龍三郎をかれの世界へ停滞させて、とりまきにおだてさせておく事情になるし、より新しい美術の生れて来る生活感情へのもだえを消し批判と新しい創造力をあいまいにする。
 例えばピカソの画についてどれだけの人がピカソの世界の必然性を実感するだろう。ピカソの画が分らないということは画が…

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