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現代文学の広場
げんだいぶんがくのひろば
副題創作方法のこと・そのほか
そうさくほうほうのこと・そのほか
著者
文字遣い新字新仮名
底本 「宮本百合子全集 第十三巻」 新日本出版社
1979(昭和54)年11月20日
初出「新日本文学」1950(昭和25)年8月号
入力者柴田卓治
校正者米田進
公開 / 更新2003-05-26 / 2014-09-17
長さの目安約 20 ページ(500字/頁で計算)
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本文より

 去年おしつまってから肉体派小説、中間小説の作者と一部の作家・批評家との間に、ちょっとしたやりとりがあって注目をひいた。
 その討論に、三好十郎も出場して「小豚派作家論」という題をもつ彼一流の毒舌的な評論をかいた。肉体派、中間小説派の作者たちとその作品のそまつな戦後的商品性を、へど的にむき出してその安価さを排撃した。けれども、「小豚派作家論」と題してきり出された勇ましいその評論も、すえは何となししんみりして、最後のくだり一転は筆者がひとしおいとしく思っている心境小説の作家尾崎一雄を、ひいきしている故にたしなめるという前おきできめつける、歌舞伎ごのみの思い入れにおわった。ジャーナリズムの上に一年間も八方に向って文学的へどをはきつづけることのできた強壮な三好十郎が、どうして「小豚派作家論」の終りは、そのように我からしんみりとなって、とどのつまりは尾崎一雄におもてを向け、結局君なんかがもうすこし、しっかりしないからいけないのだ、と半ばたしなめ、半ばあきらめて歎息することになったのであったろう。
 三好十郎は、いわゆる肉体派作家、中間小説を主張する作家の多くの人々の人生態度と作品の安易な商品性を明らかに軽蔑する。けれどもその軽蔑にもかかわらず、他の一面では、彼の名づける小豚派文学の、発生の社会的起源について、否定しきれないものをもっている。はげしい前線の生活も経験して来た壮年の一部の作家たちが、戦後日本の錯雑した現実に面して、過去の私小説的なリアリズムの限界の内にとどまっているにたえないのは必然である。日本の社会現実を全面的にすくい上げようとして彼ら一部の作家たちは新しい投げ網をこころみている。少くとも、その必然と大胆さは認めてやらなければならない、と。過去の私小説やそのリアリズムにあきたりない思いは、三好十郎自身のうちに烈しく存在している。その共感にひかされて、三好十郎の毒舌も、しまいはブツブツ、現在の肉体派や中間小説が、現代文学の新しい局面を展くためには、無益であるばかりか有害でさえあるという事実を批判しきれなかった。
 その討論の時期に、伊藤整も東京新聞の文芸欄で発言した。肉体小説、中間文学に対する彼のもの言いは、非常に機智的であった。否定するかとみれば、一部の肯定もあり、さりながら単純な肯定一本で貫かれているという見解でもなかった。伊藤整を、そのように複雑なもの云いにさせたのは何であったろう。彼にも、過去のリアリズム否定と、狭い日常性に封じこまれて来た、日本の私小説への反逆がある。彼の知性が、よりひろく、強靭であろうと欲している、その角度から少くとも、私小説的な要素を否定している意味での中間小説に対して、単純な断定をさけさせたのであったと考えられる。
 昨年十二月号『群像』の月評座談会で、林房雄は、宇野浩二の書いた「文学者御前会議」(文学者が天皇に会ったとき…

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