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処女作の思い出
しょじょさくのおもいで
作品ID3029
著者南部 修太郎
文字遣い旧字旧仮名
底本 「過ぎゆく日」 寶文館
1926(大正15)年7月20日
入力者小林徹
校正者林幸雄
公開 / 更新2002-05-29 / 2014-09-17
長さの目安約 10 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 忘れもしない、あれは大正五年十月なかばの或る夜のことであつた。秋らしく澄み返つた夜氣のやや肌寒いほどに感じられた靜かな夜の十二時近く、そして、書棚の上のベルギイ・グラスの花立に挿した桔梗の花の幾つかのしほれかかつてゐたのが今でもはつきり眼の前に浮んでくるが、その時こそ、私は處女作「修道院の秋」の最後の一行を書き終つて、人無き部屋にほつと溜息つきながら、机の上にペンを置いたのであつた。それは處女作と云ふにも恥しいやうな小さな作品ではあつたが、二十日近くのひた向きな苦心努力にすつかり疲れきつてゐた私は、その刹那、深い嬉しさとともに思はず瞼の熱くなるのを禁じ得なかつた。
 云ふまでもなく、如何なる作家にとつても處女作を書いた當時の思ひ出ほど懷しく、忘れ難いものはあるまい。いや、たとへ、世に知られた作家ではなくとも、小學校へはひつて文字を習ひ覺え、幼い頭にも自分の想を表すことを知つて、初めて書き上げた作文に若し思ひ出が殘るならば、それは人人の胸にどんな氣持を呼び起すことであらうか? また世の蔭にひそんで人知れず自己の作品を書き努める無名の作家、雜誌への投書を樂しむつつましき文藝愛好者、そこにもそれぞれに懷しく、忘れ難い處女作の思ひ出は隱れてゐることであらう。そして、その完成までの苦心努力が深ければ深いほど、思ひ出は時には涙ぐみたいほど痛切であるに違ひない。
 その年の八月初めであつた。私は膽振の國の苫小牧に住む妹夫婦の家を訪ふべく、初めての北海道の旅路についた。東京を立つてから山形、船川港、弘前、青森、津輕海峽を越えて室蘭と寄り道しながら、眼差す苫小牧へと着いたのが七八日頃、それから九月へかけてのまる一ヶ月ほどを妹夫婦の家に暮した。苫小牧は製紙工場のあるだけで知られた寂しい町で、夏ながら單調な海岸の眺めも灰色で、何となく憂欝だつた。そして、ゴルキイの小説によく出てくる露西亞の草原を聯想させるやうな、荒涼とした原の中に工場と、工場附屬の住宅と、貧しげな商家農家の百軒あまりがまばらに立ち並び、遠く北の方に樽前山の噴火の煙が見えるのも妙に索漠たる感じを誘つた。
 けれども、そんな處に毎日を暮しながらも、私の氣持は絶えず一つの興奮の中にあつた。それはその半年ほど前からひそかに想をかまへてゐた「雪消の日まで」と云ふ百枚ばかりの處女作をここで書き上げようと云ふ希望が、私の全身を刺戟してゐたからだつた。で、私は異郷に遠く旅出して來ながらあんまり出歩くこともせずに、始終机に向つてはその執筆に專心した。私は眞劍に、純眞に努めつづけた。そして、それに深く疲れる時いつも頭を休めに行つたのは、家から寂しい草原の小徑を五六町辿る海岸の砂丘の上へであつた。そこは町からも可成り離れてゐて、あたりには一軒の家もなく、人影も見えず、ただ「濱なし」と云ふ野薔薇に似たやうな赤い花がところどころにぽつぽ…

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