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維新史の資料に就て
いしんしのしりょうについて
作品ID3038
著者内藤 湖南
文字遣い旧字旧仮名
底本 「内藤湖南全集 第九卷」 筑摩書房
1969(昭和44)年4月10日
初出談話筆記、1922(大正11)年8月
入力者はまなかひとし
校正者菅野朋子
公開 / 更新2001-11-28 / 2016-04-20
長さの目安約 10 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 いづれの世でも革命の際は必ず陰謀がこれに伴ふ。從つてこれに關する記録も多くは當時の陰謀から出た結果の記録であつて信用し難いものであることは、古來屡[#挿絵]見る所である。然し或時期を經過すると其時の陰謀に與かつた人々の多くは亡くなり、自然に觀察が公平になるのと、從來の記録に反對の材料を發見して史實を一變することがある。どうかすると支那等の樣な國では朝代の替り目のみならず、同じ朝代の間にあつても陰謀簒奪などの行はれた後では、時として右の順序を繰返すことがある。
 例へば明の永樂帝が建文帝の位を奪つた所謂靖難の役に就いては、明の實録は建文一朝を認めないで、前代の洪武の年號を延ばして書いて居つて、これを革除と稱して居る。然るに永樂帝の曾孫か玄孫の代くらゐになつて、建文帝が靖難の役に死なゝいで僧侶になつて逃れたのが現れて來た。それを終りには明の宮中に呼びかへして僧體の儘で一生を安らかに送らしめたといふ話があつて、當時の信用すべき歴史家も其事を明かに認めてゐる。清朝で明史を作つた時は其説を採らないで、建文帝は靖難の役に死んだものと極めたのであるが、明代では一般にさうは信じなかつた。
 それはどちらが事實だか判らないとしても、兎も角著しい事變の後にはいろ/\な歴史上の疑問が生じて、後に判斷に苦しむ樣な事が出來てくる。然しこれは多くは事變の鎭まつた時に、いろ/\陰謀等の跡を蔽はんが爲めに、勝利を占めた一方の材料だけを採つて記録とするから起る所の結果であつて、若し他の一方即ち敗者の材料を早く集めておくならば、曖昧な疑問が生ずるといふことが比較的少くなる。今日の如く歴史が一つの學問として考へられ、其の眞相を現すことが一つの神聖な仕事として考へられる時代にあつては、殊にこの用意が必要であつて、一時の順逆などゝいふ考へは、神聖な史實の前には極めて微力なものであると考へなければならぬ。
 以上の如き見地から我維新史を觀察すると、そこにいろ/\な問題が生じて來るであらうと思ふ。今日の維新史料編纂局といふものは如何なる方針で如何なる材料を蒐集してゐるか知らぬが、最初藩閥思想の最も強かつた井上侯が主宰して居り、その委員と稱する人物は多く維新以後の藩閥方であつた人々であるところから見ると、果して勝利者に便宜な方法で作られて居ないといふことを斷言し得るかどうかと思ふ。現に維新前後の殉難者の待遇といふ樣なものも、頗る公平を缺いて居るではないかと思ふ事がある。
 戊辰の歳の革命戰爭で敗けたものは降服した結果となつたから、其時並に其後引續き勝つたものが執つたところの態度に對しては更に何等の苦情をも言はなかつた。其後數度の大赦特赦等があつて賊名などは除かれ、徳川慶喜公さへも後には公爵に列せられたけれども、維新の時に薩長に反對して戰死し、若しくは敗北の責を負うて死を賜つたものなどは、贈位の恩典に浴し…

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