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イボタの虫
イボタのむし
著者
文字遣い新字旧仮名
底本 「現代日本文學大系 91 現代名作集(一)」 筑摩書房
1973(昭和48)年3月5日
入力者林幸雄
校正者小林繁雄
公開 / 更新2002-12-20 / 2014-09-17
長さの目安約 23 ページ(500字/頁で計算)
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本文より

 無理に呼び起された不快から、反抗的に、一寸の間目を見開いて睨むやうに兄の顔を見あげたが、直ぐ又ぐたりとして、ヅキンヅキンと痛む顳[#挿絵]を枕へあてた。私は、腹が立つてならなかつたのだ。目は閉ぢはしてゐても。枕許に立つてゐて自分を監視してゐるであらう兄の口から、安逸を貪ることを許さないと云ふ風な、烈しい言葉が、今にも迸りさうに思はれてゐたのだ。
 兄は併し、急き立てて私の名を呼びつづけようとはしなかつた。もう私が目を醒したのだと知ると、熟睡のあとの無感覚な頭の状態から、ハツキリした意識をとり戻し得るだけの余裕を、十分私に与へてやると云ふ風に暫く黙つてゐた。で、流石に私も寝床に執着してゐる自分が恥ぢらはれて、目を見開いて了はうとするのだつたが、固く閉ぢられてゐた私の瞼は、直ぐには自分自身の自由にもならなかつた。ともすると兄の寛大に甘えて危く眠り落ちさうになつてゐた。
「起きろよ」
 突然に又兄の鋭い声がした。劫かされたやうに、私は枕から顔を放して、兄の顔を視守つた。二言三言眠り足らない自分を云ひ訳しようとでもする言葉が、ハツキリした形にならないまま鈍い頭の中で渦を巻いてゐた。
「いま――何時なの」
 やがて、かう訊いたのだ。が、併し、兄はそれには答へなかつた。私は一寸てれて机の上の置時計を見た。七時半であつた。
「二時間位しか、眠りやしない……」
 私は半分寝床から体を這ひ出しながら、口を尖らせながら、呟くやうに云つた。さう云ふ私を、兄は非難しようとさへしなかつた。
「兎も角起きろ。――起きて、着物を着かへてキチンと帯をしめろ、たいへんなことになつたんだ」
 かう、妙に沈んだ声で云ふのだつた。これは少し何時もと様子が違つてゐると思つて、私はかすかな不安を覚えながら、節々の痛む体を無理に起して寝床から放れた。――帽子も被つたまま、オーバコートも着たままの、役所へ行きがけらしい兄の姿をもう一度よく視守つて、何か云はうとしてゐると、
「美代が悪いんだ」と、兄は怒つてでもゐるやうな恐い顔をして、押つ被せるやうな強い口調で云つた。
「姉さんが?――姉さんには昨日僕あつたんだけれども……」
「昨夜一と晩で急にヒドく悪くなつたんだ。肺炎だと云ふんだが、妊娠中のことでもあるし、もう駄目らしい。今日午前中持つかどうか……」
 キツパリと、あまり強い調子で云ふので一寸の間私は、兄の言葉に反問することが出来ずにゐた。さうして、心の中で兄を憎らしいものに思つてゐた。
「そんなことはありはしない。そんなことつてありはしない……」
 暫くして、私は兄を責めでもするやうに、ワクワクしながら呟いた。けれども、興奮して、黙つて、ぼんやり突つ立つてゐる兄の顔を視守つてゐるうちに、私は、自分の言葉に少しも権威のないことを思はない訳に行かなくなつた。兄の言葉を信じない訳に行かなくなつた。さうして、…

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