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私も一人の女として
わたしもひとりのおんなとして
著者
文字遣い新字新仮名
底本 「宮本百合子全集 第十四巻」 新日本出版社
1979(昭和54)年7月20日
初出「婦人画報」1934(昭和9)年12月号
入力者柴田卓治
校正者米田進
公開 / 更新2003-07-09 / 2014-09-17
長さの目安約 7 ページ(500字/頁で計算)
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本文より

 今私たちの前には、その事件が当事者の愛の純情に発しているという意味で人の心を打った二つの現象が示されている訳ですが、私は松本伝平氏の場合と弓子さんの場合とは、それぞれ別のもので、違った分析がされなければならないものではなかろうかと考えます。
 松本氏が、急になくなられた許婚の愛人栄子さんと岳父の代人で結婚の盃をあげられた行為は、氏の年齢や学歴やその地方での素封家であるというような条件と対照して、私共の注意を一層呼び起したと思われます。「松本氏の年や地位にてらして何という今の世に珍しい純情であろう!」そこに同情と或る感歎が与えられているのだが、私は、その点を大変面白く思いました。何故と云えば、考えて御覧なさい、世間が松本氏の純情を特別な美しいものとしてとりあげた反面には、実に明瞭に、今日の社会で三十越して、金持ちで、博士なんていう男はどうせ女ずれがしている。女房は便利な家庭常備品という位にしか考えていないという一般の通念が反映しているではありませんか。
 現代社会の現実はそのように人間の愛情をも低下させ貧弱なものにしているから、私達は一つの例外な行為として松本氏の栄子さんに対する愛情の表現に目を見張ったのです。
 私は、松本氏がああいうやりかたで自分の真情を吐露されたのは、それで松本氏の気がすみ、生きる力となったのなら、よいではないかと思います。栄子さんもそれを楽しみ、死ぬときも良人としての松本氏の俤を心に抱いて逝かれたとしたら、松本氏はまじり気なくあの当時の打撃によって、「自身の妻としての栄子」に対する何か特別な、何か心持を満す表現がほしかったのであろうと察せられます。只、私は、妻に対するそういう謂わば非常に感覚的な苦しい愛情の表現の形式として、松本氏が三々九度の盃というやり方をとられたところに、氏の生活形式の内に根づよくのこされている古風なもの、封建的なものを感じただけです。
 愛情に対してそのようにこまやかな松本氏の性質と地位とが明らかとなった今日では、きっと多くの若い婦人の関心をひいているであろうから、或は却って将来松本氏にとっては幸福な結婚の可能性が増したことになっているかも知れません。
 栄子さんに対してああいう風な形で熱情をうちかけたからと云って、これから松本氏が生涯を独身で送るであろうとか、そうあってこそ本当の純情だとか思う人があったら、私はそれこそ人間の心を安っぽくかたづけるロマンチシズムであると思います。
 或る場合、或る種の人間にとっては、松本氏のような苦しい愛情を経験したとき、その精神的感動と緊張とが深大であればある程、感覚的な放散がなければ生きる抜道がない事さえもある。いずれにせよ、私は卑俗なセンチメンタリズムで松本氏が自繩自縛の偽善に陥られぬよう希望するし、私達の態度としては、こういう人生のめぐり合わせに対して思いやり深く、しかも…

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