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女性の教養と新聞
じょせいのきょうようとしんぶん
著者
文字遣い新字新仮名
底本 「宮本百合子全集 第十四巻」 新日本出版社
1979(昭和54)年7月20日
初出「セルパン」1937(昭和12)年5月号
入力者柴田卓治
校正者米田進
公開 / 更新2003-07-09 / 2014-09-17
長さの目安約 4 ページ(500字/頁で計算)
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本文より

 現実を、その様々な相互関係、矛盾の内外につき入って具体的に理解する実力、そしてそれらの間に在る自身の居り場所とその意味を把握して生きる力を教養であるとして考えて見ると、今日の日本の新聞は、そういう意味では一般に女性の教養を高める役には大して立っていないのではないかと思う。全体的に見て、今日の新聞そのものの性質が、明治初年の天下の公器としての自由性を失われているのであるから、現象的にニュースの断片を注ぎ込まれ、物価騰貴とその末葉のやりくりを知らされても、事象の本源までは新聞では迚も分らなくなって来ている。
 婦人欄の扱いかたなどは、近頃各紙とも相当苦心の跡が見える。写真の使い方、見出しのつけ方等、時に溌剌とした印象を与えるが、概して記事の範囲、深さは婦人雑誌から遠くも広くもなり難いらしい。昔、婦人欄は主として婦人記者であったけれども、この頃はそういうことが減って大体は男の記者でやられている。婦人欄などの狙っている面白さとそのこととの間に、なにか微妙な関係のあることが感じられるのである。
『読売新聞』夕刊につく重宝欄は、おそらく大抵の女のひとに一応は読まれているであろう。だがああいうものは、教養とは凡そ反対の社会相を反映するものだと思う。今日の世の中で、体裁よい小市民生活をやりくってゆくためには、家庭の女がどんなせっぱつまった事情の裡に追いこまれて来ているか、また、女が真の生活力としての教養を身につける機会がいかに少く困難であるかという社会的条件を語っている。
 身の上相談では、わが身の上の苦しさを訴える女のひとの立場と、それに解答を与える女のひと達の立場とが、相対的に今日おかれている日本の女の社会性の内容、水準等を、おのずから読者の前に披瀝しているのである。読物として各紙が飽きずそれを掲載している理由も、そういうところにあるのだろう。けれども、読者として私たちは屡々疑問を感じることがある。何故なら、身の上相談の答えというものの十中八九は、率直に云ってお座なりである。解決らしい解決、説明らしい説明は極めて少い。それで質問者が果して納得するものであろうかと、寧ろ不思議にさえ思われる。
 ところが、いつぞや身の上相談の解答のこつについて興味ある言葉をきいた。それは、どうせ身の上相談に訴えて来るような女のひと達は、生活の上に自主性のない、決断力を欠いている人々である、だから余りはっきり社会的にそれを説明したって無駄であるし、また余りきっぱりした処置を示したところで却って喜ばず、新聞社としてもそういう解答は歓迎しない、まあ、当らずさわらずのところで納まるような妥協案を示すのが一番であるという意味であった。
 この言葉は二重に私の心に感じさせるものがあった。身の上相談の解答者となる女の先輩達は、そのことによって或る程度まで自身の社会的名声というようなものをも拡大するので…

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