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フェア・プレイの悲喜
フェア・プレイのひき
著者
文字遣い新字新仮名
底本 「宮本百合子全集 第十四巻」 新日本出版社
1979(昭和54)年7月20日
初出「婦人公論」1939(昭和14)年7月号
入力者柴田卓治
校正者米田進
公開 / 更新2003-07-12 / 2014-09-17
長さの目安約 3 ページ(500字/頁で計算)
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本文より

 私の不幸というものについて書くように云われると、何となし当惑したような咄嗟の心持になるのは、私ひとりのことだろうか。世間で、不幸という言葉に対して幸福という形容で云われている、そういう生活が決して私の毎日にあるわけではないのだが。それどころか、こうあったらと思う生活とは随分ちがった暮しだと思う。たとえば、誰にしろ、愛している者とは一緒に暮したい。同じ貧乏もするならば二人でしたい、どんな妻だってそう思っているであろう。そんなことも私たちの毎日の実際としては出来にくいことの一つとなっている。又、一人の人間、女として力の一杯が生かされ得る可能において、成長し得る限りの成長をとげて見たいという切実な願望を、私たちは皆それぞれの形でもっていると思う。人間生活の豊富さにふれ、自分の生涯もそのために役立っているという歓びに生きることを希っている。私としてはその一つの道が文学にあるわけだけれども、今日の世界が面している多難さは、私たちの日常生活のごく細かいところまでその波をうたせているから、現実の様々の錯綜した条件から、そのような願望も実現には少なからぬ困難を経ている。
 お喋りの間に笑い笑い云えば、私がこう丸まっちいのも不幸の一つね、と云えるようなものだが、真面目に人生の心持としてとりあげて見ると、私たちの生活を充たしているどころか寧ろその上に、その間に毎日が営まれていると云える程の不如意、願わしくない事情、困難を、それとして十分認め、或る場合それに拉がれることをも率直に認めつつ、しかも、それ等が私の不幸と固定したものとなって、生活感情にかたまりついていないというのは、面白いことだと思う。
 私たちの生活の現実の裡には、今日の社会が複雑であるだけ極めて複雑ないろいろの関係が織りこまれているのだから、それらに対する私たちの生きよう、受けよう、働きかけようで、条件から引き出されて来る結果はいくつかに分れると思う。幸福、不幸という生活の概括のしかたは、今日では益々比喩的な言葉というか、チラリと生活の波に照る言葉で、固定してそれが生きてゆく心の土台となるようなものではなくなって来ていると思う。私たちは、日夜、営々として、人間として願わしくない事情を、より願わしい方向に向けて有形無形に推しすすめようとする直接の感じで生きていると思う。自分の生活に現れて来る不如意や困難の深くひろい原因と、社会のつながりとを理解し、それを細かく理解することからその中に在る可能を見つけ出して、その可能は一杯に育てたいという努力で生きており、その努力に甘えず、人類の進歩から的はずれなものとならないためには、一層広く透徹した人間生活への理解、堅忍と愛とが必要と思われている。
 仮りに不幸とか幸福とか云う云いかたに従って現代を見れば、世界のありようとして、私たち誰もの生活に波瀾は避けがたく、もし現代の若い女…

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