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異性の友情
いせいのゆうじょう
著者
文字遣い新字新仮名
底本 「宮本百合子全集 第十四巻」 新日本出版社
1979(昭和54)年7月20日
初出「婦人画報」1941(昭和16)年2月号
入力者柴田卓治
校正者米田進
公開 / 更新2003-07-21 / 2014-09-17
長さの目安約 9 ページ(500字/頁で計算)
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本文より

          一

 異性との間の友情の可能やその美しさなどについてより多くさまざまに思い描くのが常に女性であるということについて、私たちはどう考えたらいいのだろうか。
 十五六歳のういういしい情感の上にそのさまざまな姿が描かれるばかりでなく、二十歳をかなり進んだひとたちも三十歳の人妻もあるいは四十歳を越して娘が少女期を脱しかけている年頃の女性たちも、率直な心底をうちわってその心持を披瀝すれば、案外にもその人たちが十七八歳か二十ごろ抱いていた異性の間に友情は成り立たないものかしらというぼんやりした期待、疑問を、そのまま持ち越している人たちがかなりあるのだろうと思う。
 そして、そういう現代の女性の比較的表現されていない気持は、後輩や娘たちが当事者として、異性との間に友情と恋愛の感情の区別をはっきり自覚しないでいろいろ混迷しているとおり、やはり事態に対して何となし判断の混乱におかれている場合がすくなくない。
 でも、どうしていつも女性の側が、ほとんどその年齢にかかわらず異性との間により広闊な友情を求める心理に在るのだろうか。男の雑誌に、異性との友情について書かれる記事は稀なのに、どうして女性のための雑誌は、時を置いてはこのテーマをくりかえす必然におかれているのだろうか。特に、日本の婦人雑誌では、女の幸福についての論議や異性の間の友情の可能についての文章が多い。この事実には、近代日本というものの深い歴史の影が現れていると思わざるを得ない。
 もし日本の習俗の中で男性というものが女性にとって、良人候補者、あるいは良人という狭い選択圏の中でばかりいきさつをもって来るものでなかったら、異性の間の友情について常に何かロマンティックな色どりを求めるいくらか病的な感傷性も、きっとずいぶん減っただろう。幼稚園時代から引つづいた男の子と女の子との共同生活の感情が、成長した若い男女の社会的な働く場面へまで延長されている社会なら、両性の共感の輪も内容もひろげられ、明るくされ、今日つかわれる異性の友情という表現そのものが、何か特定な雰囲気を暗示しているようなうざっこさは脱して、たのしい向上的な両性の友情感が一般の社会感情の一つとして行きわたるのだろうと思う。そういう社会的な土台があっての両性の友情感であれば、おのずから恋愛との区分も、感情そのものの質のちがいとして、本人たちもはっきり自覚することができるのだろう。
 日本で、さわやかな両性の友情の成り立ちが困難な原因は、もう一つあると思う。それは、日本の婦人ぐらい欧米の男にだまされやすい女性はないという、その現実の源泉と社会的な性質では全く同じもので、日本の女性たちの日常は、どちらかというと男から荒っぽく扱われ生活感情を圧しつけられて暮らしている。男のひとのいい分とすれば、その外見的な粗暴のかげに日本の亭主ほど女房を立てているも…

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