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夫婦が作家である場合
ふうふがさっかであるばあい
著者
文字遣い新字新仮名
底本 「宮本百合子全集 第十四巻」 新日本出版社
1979(昭和54)年7月20日
初出「行動」1934(昭和9)年12月号
入力者柴田卓治
校正者米田進
公開 / 更新2003-07-27 / 2014-09-17
長さの目安約 8 ページ(500字/頁で計算)
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本文より

 よほど以前のことになるが田村俊子氏の小説で、二人とも小説をかくことを仕事としている夫婦の生活があつかわれているものがあった。筋や、そのほかのことについてはもう思い出せないのであるが、今も焙きついた記憶となって私の心にのこっている一場面がある。何か夫婦の間の感情が気まずい或る日、妻である婦人作家が二階の机の前で小説が進まず苦心していると、良人である男の作家がのしのし上って来て、傍から、何だ! そんなことじゃ先が見えてる。僕なんか三十枚ぐらいのものなら一晩で書くぞという意味の厭がらせを云って、妻の作家の苦しい心持を抉るようにする。しかも、良人である作家は、その時もう創作が出来ないような生活の気分に陥っているのが実際の有様であったというようないきさつが、田村氏独特の脂のつよい筆致で描かれているのであった。
 私は、その小説を読んだ時、二十前後であったと思うが、深刻な感銘をうけた。自分の女としての一生についても考え、いつかしらぼんやり感じていたことを改めてはっきり、自分は決して作家を良人には持つまいと心にきめたのであった。
 それから後、又何程か経って、女の作家として私の持つその考えを更に内容的に多様化し確めるような一組の作家夫婦を見た。いずれも文学的公人であるから名をあげることをも許されると信じるが、その夫婦は佐佐木茂索氏夫妻である。
 何かの折佐佐木茂索氏とふさ夫人とが題材としては小さい一つの題材を二人両様に扱って書いたところ、(或は書こうとしたところ)その扱いかたの腕では、茂索氏が勝ったとか、ふさ夫人がまけたとか、単に二人をかけ合わすのが面白いというような対比のしかたでゴシップにのぼったことがあった。
 私は、その当時、田村氏の場合と違った種類で感想を刺戟された。二人ともうるさくて厭だろう。私は主観的にそう思いやって感じた。内でも外でも、二人の作家としての神経が夫婦の生活感情の中に在っては、互にくたびれるであろう。例えば、一緒に暮していれば生活の中に起った同一のことについて、妻も良人もその瞬間ああ書きたいと思う場合もあるに違いない。その時、まして茂索氏やふさ夫人のような気質の人たちであったら、大したものでもない題材へ、夫婦が両側からとびつく姿をめいめいの心の中に描いただけでもうんざりするというところがあり、具体的には計らず互に牽制する結果となって才能をいつか凋ませ、みえを忘れて文学を創る者ではなく、文学を理解し愛好するものにまで生活態度を消極化してしまうのではあるまいか。人と人との組合わせから起るおとのない悲劇のように、私はその過程を寧ろすさまじいものに考えたのであった。
 宇野千代氏が、作家尾崎士郎氏との生活をやめた心持も他のことをぬいて、その面からだけ見て、理解しがたいものとは映らなかった。
 私はそれ等のことを主として、作家としての完成というものも個人…

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