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科学の精神を
かがくのせいしんを
作品ID3187
著者宮本 百合子
文字遣い新字新仮名
底本 「宮本百合子全集 第十四巻」 新日本出版社
1979(昭和54)年7月20日
初出不詳
入力者柴田卓治
校正者米田進
公開 / 更新2003-08-08 / 2014-09-17
長さの目安約 4 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 科学への関心が、いくらか流行の風潮ともなって、昨今たかめられて来ている。いろいろの面から観察されることだろうが、私として頻りに考えられることは、そういう今日の傾向のなかで、科学知識と科学の精神という二つのものが、どんな工合に互の相異や連関を明らかにされて来ているのだろうかという点である。部分的にとりあげれば多極な問題も、根源に横わる鍵はこの二つのものの活きて動くところにあって、特に日常生活に即した面ではこの点が非常に大きく深く作用しているのではなかろうかと考えられる。
 科学的な学識や知識が、素人が考えるより遙かに科学の精神とは切りはなされたままで一人のひとの中に持たれているという場合も、現代の実際にはある。
 或る婦人があって、そのひとは医学の或る専門家で、その方面の知識は常に新しくとりいれているし、職業人として立派な技量もそなえているのだけれども、都会人らしい、いろいろの迷信めいたものも一方にそのままもっていて、それは決してやめない。科学の知識は、極めて局限された範囲内で持っていることは確かなのだろうが、この場合、その人の全精神が、客観的な真実を愛すという科学の精神によって一貫されてはいないことも亦確だと云わざるを得ない。一寸考えると、ありそうもないこういうことが現実に存在する。
 若い女性について、科学の知識は相当ある筈なのにそれが生活の中では一向活かされていない、という非難が屡々云われている。それなども、つまりはそれらの女性たちが方程式の形だのでは可成りの科学知識を与えられているのに、教育のうちに肝心の科学精神を何も体得させられていないために、実験室があるわけでもない日々の暮しの中では、その知識も死物となって行くのだろうと思う。
 科学の精神というものと、ただの科学知識とは決して一つものでない。
 どんなに身勝手なひとに思いやりのない母親でも、この頃の母親なら自分の子供を育てるのに一応科学的な知識が必要だということは心得ている。自分の子のためになら随分と面倒くさいヴィタミン補給の方法もとるであろうと思う。こういう母親は、自分の子にトマトをたべさせようと思って、店先に一つしかないのを見れば、もう一人そこにいる母親がどんな切迫した必要から、やはりその一つのトマトを欲しく思っているかもしれないなどとは思いもせず、必要の人が多ければ多いほど、我勝ちと猛ってそのトマトを買ってしまうだろう。うちの子にヴィタミンがいるという知識は、やはり科学知識の一つであるのにちがいはない。
 しかし、そのとき、その場に居合わせる人の中でそのトマトを一番欲しがっているというよりも一番必要としているのはどういう状況の子供か、というところへ迄、母親としての念が働いてゆくとき、そこには最も初歩の形なりに科学の精神が輝くのだと思う。母性の愛は、科学の精神に導かれて、主我的な我が子への執…

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