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川端康成第四短篇集「心中」を主題とせるヴァリエイシヨン
かわばたやすなりだいよんたんぺんしゅう「しんじゅう」をしゅだいとせるヴァリエイション
作品ID3202
著者梶井 基次郎
文字遣い旧字旧仮名
底本 「梶井基次郎全集 第一巻」 筑摩書房
1999(平成11)年11月10日
入力者高柳典子
校正者小林繁雄
公開 / 更新2002-11-28 / 2014-09-17
長さの目安約 6 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 彼が妻と七才になる娘とを置き去りにして他郷へ出奔してから、二年になる。その間も、時々彼の心を雲翳のやうに暗く過るのは娘のことであつた。
「若し恙なく暮してゐるのだつたら、もう學校へあがつてゐる筈だ。あの娘等の樣に」
 他郷の町の娘等は歌を歌つたり、毬をついたり、幸福そうに學校へ通つてゐた。――幸福そうに。
 そのうちに彼は、父に捨てられた幼い者の姿で、毬をついてゐる、自分の娘を感じる瞬間を持つ樣になつた。そこには何時も、とんとん、とんとん、といふ音が聞えた。生きてゐるか、死んでゐるか、わからない――また、一體そんな娘を嘗て持つたことがあつたのかどうかも、時々には疑はしくなる、彼の娘なるものが、その不思議なとんとん、とんとん、といふ響のなかに不幸な生存を傳へて來るのであつた。
 其の音に彼は搾木にかけられたやうに苦しんだ。そんな自分を、彼はどうすることも出來なかつた。
(子供にゴム毬をつかせるな。その音が聞えて來るのだ。その音が俺の心臟を叩くのだ。)
 彼は思ひ餘つてそんな手紙をかいた。封筒の表書をすませると、彼はそんな國、そんな町が一體存在したのかどうかも疑はしかつた。封筒に裏書はしなかつた。そして投函した町から、直ぐ彼は去つた。
 もう彼にはゴム毬の音は聞えて來なかつた。生活の響、瀬の音、木の葉ずれ、そんなものが旅に出た當初の鮮かさを持つて彼に歸つて來た。が、それも永くは續かなかつた。心が重くなつて來た。戛々と――それは娘が路を踏む靴の音ではないか? その音は必ずいぢらしい娘の登校姿を心象に伴つて來るのであつた。彼は黴臭い旅籠の蒲團の上で轉輾した。
 戛々、戛々、父の心臟の上とも知らず、いたいけな娘の歩く音。
(子供を靴で學校に通はせるな、その音が聞えて來るのだ。その音が心臟を踏むのだ。)
 彼はまた手紙を書いた。左うする外に、どういふ方法も彼は知らなかつた。たゞ彼は信じてゐた。若し妻が手紙を受取れば、子供から靴を脱がすに違ひない。そして若し彼女等が此の世にゐないのだつたら…………どちらにしても、靴の音を聞く苦しみから、自分は全く解れることになるのだ。――
 第三の手紙は、最初と次の手紙の間隔より遙かに短い、一月の間をおいて投げ込まれた。
 そしてその音も、次々小さく、然も段々質が固く冷くなつて來た。
(子供に瀬戸物の茶碗で飯を食はせるな。その音が聞えて來るのだ。その音が俺の心臟を破るのだ。)

       ○

 彼女が夫の上に氣遣つてゐること、そしてまた自分達の上に願つてゐること。夫の手紙はそれらのことに一筆だも觸れてゐない。妻は昔にかわらない夫の冷酷をそのなかに見た。然し、何といふ苦しみ樣だらう。不自然な老いが此度の手紙には察せられるではないか。
 ――そして短い文面の不思議に嚴かな力は、此度も彼女をその命に從はせるのであつた。
 彼女は薄氷の上…

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