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私の貞操観
わたしのていそうかん
作品ID3319
著者与謝野 晶子
文字遣い新字新仮名
底本 「与謝野晶子評論集」 岩波書店 岩波文庫
1985(昭和60)年8月16日
初出「女子文壇」1911(明治44)年10月~11月
入力者Nana ohbe
校正者門田裕志
公開 / 更新2002-01-10 / 2014-09-17
長さの目安約 23 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 従来は貞操という事を感情ばかりで取扱っていた。「女子がなぜに貞操を尊重するか。」こういう疑問を起さねばならぬほど、昔の女は自己の全生活について細緻な反省を下すことを欠いていた。女という者は昔から定められたそういう習慣の下に盲動しておればそれで十分であると諦めていた。
 けれども今後の女はそうは行かない。感情ばかりで物事を取扱う時代ではなくなった。総てに対して「なぜに」と反省し、理智の批判を経て科学的の合理を見出し、自己の思索に繋けた後でなければ承認しないという事になって行くであろう。
 感情をあながちに斥けるのではない。女が唯一の頼みとしていた感情は、いわば元始的の偏狭と、歴史的の盲動とで海綿状に乱れた物であった。その偏狭は時に可憐だとして小鳥の如くに男子から愛せられる原因とはなったが、大抵はその盲動と共に女子と小人とは養いがたしとて男子から蔑視せられる所以であった。今は女の目の開く世紀である。その感情を偏狭より脱して深大豊富にすると同時に、その盲動を改めるために、それに軸または中心となる理智を備え、理智に整理せられつつ放射状に秩序ある感情の明動をしようとする時が来た。いわゆる女子の自覚とはこれを基礎として出発し、自己を卑屈より高明に、柔順より活動に、奴隷より個人に解放するのが目的である。
 男子はこういう意味の感情の修練、自己の解放を古くから気附いていた。希臘印度の古い哲学より欧洲近世の科学に到るまで、総て要するに男子が自ら全かろうとする努力の表現である。女子は殆どこれらの文明に与っていなかったといってよい。
 初心な女だといわれることは最早何の名誉でも誇りでもない。それは元始的な感情の域に彷徨して進歩のない女という意味である。低能な女という意味である。
 気が附いて見ると、男子は大股に濶い文明の第一街を歩いている。哀れなる女よ、男と対等に歩もうとするには余りに遅れている。我我は早くこの径より離れて追い縋りたい。
 総てに無自覚であった従来の女に貞操の合理的根拠を考えた者のないのは当然であるとして、あれだけ女子の貞操を厳しくいう我国の男子に、今日までまだ貞操を守らねばならぬ理由を説明した人のないのは不思議である。
 貞操の起原についてもまた我らは何の教えられる所もなかった。
 自分の乏しい智識で考えて見ると、元始的人間に貞操というような観念を自然に備えていたとは想像することが出来ない。古代に溯って見ればいずれの国民も一婦多夫であり、また一夫多妻であった。また家長族長としての権利を男よりも女の方が多数に所有していた。今でも西蔵その他の未開国には一婦多夫と女の家長権とが古代の俤を遺している。文明国においても娼婦や妓女のたぐいは一種の公認せられた一婦多夫である。一夫多妻に到ってはいずれの文明国にも男子の裏面に誰も認める如く現に保存されている。
 男子の本能の自…

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